2009 年 3 月 のアーカイブ

「自学自習」をやり遂げる凄い子どもたち

2009 年 3 月 30 日 月曜日

 ごく少数ですが、高いレベルで勉強に打ち込み、何事も自分で解決しないと気がすまないほどの域に達している子どもがいます。そんな子どもは、大人の指図をはねつけるほどの気概をもっています。

 成績を見ては一喜一憂し、いろいろ言わずにいられなくなる親に対して、「おかあさんは、勉強というものがわかってない! ボクは、成績なんかのために勉強しているんじゃない!」と、一喝するような強者(つわもの)もいます。随分前になりますが、土曜コース(当時は日曜コース)のお子さんが、「塾で指導を受けないとわからないようじゃ、情けない」と言ったなどという話を聞いたことがありますが、小学生といえども侮れない凄い子どもがいるものです。

 あるとき、6年生の女の子から質問の電話がかかってきました。「えっ、何ページの何番がわからないの?」と、尋ねたところ、「答えなら、もらった解答を見ればわかります。私が教えて欲しいのは問題の答えではありません」と、いきなり凄い言葉が返ってきました。そして彼女は、「質問したいのは、なぜこの文章のここのところの段落が、この接続詞で始まるのかということです。納得できないので教えてほしいんです」と言いました。

 あわてて国語のテキストを広げ、その文章を点検しましたが、確かに接続詞が不自然です。しかし、急な質問なので、なぜこの接続詞が用いられているのか、ちゃんと答えてあげることができませんでした。「すまないけど、しばらく待ってくれないかな」そう言って、ひとまず電話を切りました。

 それから、大急ぎで文章を真剣に点検しました。しかし、女の子が指摘したように、この接続詞やはり変です。何度も読み返し、やっと疑問が解けました。その接続詞は、数段落も前の内容を受けていました。つまり、その接続詞の前にあるいくつかの段落が「挿入段落」になっていたのです。普通、接続詞は直前の段落の内容をつなぎますから、めったにないケースです。ほとんどの子どもが気にも留めない、問題として扱われていない接続詞に着目し、納得がいかないで質問をしてくるその子の学習姿勢に、「小学生でも、こういう勉強をする子がいるのか」と、感心させられたものです。

 電話をかけ直し説明をすると、彼女も納得してくれたのでしょう。晴れ晴れとした声で、「ありがとうございました」とお礼を言ってくれました。

 後で知ったことですが、その女の子は、常に女子でトップランクをいく素晴らしい学力の持ち主でした。素晴らしい頭脳の持ち主だからあのような質問をしてくるのか、あのような疑問をもつような姿勢の持ち主だから素晴らしい成績をあげているのか、「実際のところどうなのだろう」と、あとで考えることになりました。

 みなさんはどう思われるでしょうか。いずれにせよ、「納得したい!」という気持ちを強くもっていることは子どもにも大人にも大切なことですね。そこから探求活動が始まり、人間は数多くのことを学ぶ機会を得るのですから。

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カテゴリー: 子どもの発達, 家庭学習研究社の特徴

言葉遣いの改善が子どもを変える  ~その2~

2009 年 3 月 27 日 金曜日

 前回は、会話をしているときの脳内の信号の動きについて簡単に考察してみました。そして、どういう会話が子どもの知的能力の発達につながるかについて、気づいたことを簡単に書いてみました。さらに、それを受け、子どもの会話の改善を通して学力のてこ入れを試みた先生のことを書き始めたところで終わりました。今回は、その続きを書いてみます。退屈だったら、ごめんなさい。

 坂元先生は、クラスの子どもたちにできるだけ長いセンテンスで丁寧な言い回しをするように指導されました。その際のポイントは、「接続詞」の多用です。「だから」「しかし」など順接・逆接の接続詞を中心に、場面や内容に応じた接続詞を使って言いたいことや伝えたいことを言葉で表現するよう指導されたのです。

 教科書や書物で知識を得るためには、そこで用いられている表現に近い言葉を獲得しておく必要があるでしょう。近しい間柄だけで分かり合える言葉ではなく、改まった場でも通用するような、正式な言葉遣いができるようになっておくことは、学習の場、教育の場では必須のことです。その根本とも言える土台が不十分だったのではないでしょうか。

 坂元先生は、授業のときにも、子ども同士の会話のときにも、「長いセンテンスで丁寧にわかりやすく伝える」ということをクラスに徹底させたそうです。 約1年間にわたる対策の結果、クラスの子どもたちの学力はかなり上がったそうです。この話は、複雑な思考に向いた会話を心掛けること、改まった言葉で書かれた教科書の学習に適応できる言葉遣いを身につけることが、学力の向上につながることを裏づけているように思います。

 子どもの知的能力を育てる会話について、もう少し話を進めてみたいと思います。子どもが小学生までのあいだは、日常の会話のなかで「していいこと」「してはいけないこと」を教える場面が大変多いと思います。そのときに、「だめ!」「とにかくいけないの!」「もう大きいんでしょ!  わからないの?」など、一方的に命令口調で言うのと、「・・・・・・してはいけないよ。なぜかと言うとね、・・・・・・」というように、いけない理由を丁寧に言って聞かせる話し方とでは、子どもの思考に及ぼす影響に随分違いがあるように思います。

 もう少し具体的な場面で考えてみましょう。子どもが家ではしゃいで遊んでいるときに、電話がかかってきたとします。仕事で付き合いのある方からで、重要な話があるようでした。そんなとき、「うるさい!」「静かにしていなさい!」と言ってしまうか、「今大切な電話がかかっているの。だからおとなしくしていてね。電話が終わったら、また遊んでいいよ」と丁寧に説明してやるかで、どんな違いが生じるでしょうか。

 後者のような話し方をすると、子どもは騒いではいけない理由を理解し納得しますから、素直に「静かにしていよう」という気持ちになります。また、「電話が終われば、元どおり遊んでいいんだ」という思考が働き、先を見通して今を考える姿勢が育ちます。つまり、思慮深さや自主性が育つのです。

 一方、「ダメ!」という言葉を発しただけの場合、子どもの自主性を引き出すことにはなりません。また、禁止の理由が示されないと、子どもの心に不信感が残ってしまうことも考えられます。「子どものしつけに理由など要らない」という説もありますが、子どもの自主性の発達を促したり、価値観を植えつけたりすることを望むなら、この方法は採るべきではないように思います。
 

 小学生までの子どもにとって、家庭での言葉のやりとりは、人格形成や知的能力の発達に欠かせないものです。今回の記事が、どういう会話が望ましいかをお考えになるうえで、多少なりとも参考になれば幸いです。 

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カテゴリー: アドバイス, 子どもの発達, 子育てについて

言葉遣いの改善が子どもを変える  ~その1~

2009 年 3 月 25 日 水曜日

 2~3月にかけては、子どもの言葉の発達に関する話題を中心に書きました。また、そのまとめとして3月13日には、「おかあさんは最高の言葉の先生」というタイトルの記事を書きました。家庭でおかあさんがどのような会話を心掛けることが、子どもの知的能力の開花につながるか、簡単ではありますが提案をさせていただきました。 ただし、「親子の会話のありかたについて、もう少し踏み込むべきだった」という思いも後から湧いてきました。そこで今回は、この話題について再びお話をさせていただこうと思います。

 人間同士の会話の際、脳のなかではどんなことが起こっているのでしょうか。筆者も大して詳しくはありませんが、知っていることをちょっと書いてみましょう。

 当たり前ですが、会話は音声によるやりとりです。耳を通じて入力された音声言語は、第一次聴覚野を経て隣接するウェルニッケ言語野(意味理解の中枢)へ転送されます。ここで相手の話(メッセージ)の意味が理解されます。それと同時に、受けたメッセージについての自分なりの判断や思考が行われます。そこで今度は、自分のメッセージを相手に伝えようとする意志が働きます。すると、その内容がブローカ言語野(構音の中枢)へと転送され、そこから発話に関わる口や唇、舌などの筋肉に伝えられ、音声に変換されて表出されます。これが、会話の舞台裏です。

 言葉を理解する力や、言葉をもとに思考する力、言葉によって表現する力は、上記であげた二つの言語中枢、すなわちウェルニッケ野とブローカ野を介した信号のやりとりを密にすることが必要です。絶えず「音声で届けられたメッセージ→意味理解」→思考→「伝えたいメッセージ→音声言語化」という信号の流れを脳内で循環させるのです。

 また、扱われる言語情報が複雑で高度なものであったなら、人間の脳はそれに適応しようとします。つまり、単純な言葉のやりとりをするか、複雑で構造的な言葉のやりとりをするかで、脳の信号処理のキャパシティが随分違ってくるのです。会話で扱われる語彙が豊富で、センテンスが長く、相手の集中力や理解力を要求する話し方をすることが、脳のキャパシティ・アップにつながるのは疑う余地のないことだと思います。

 会話は、毎日の積み重ねです。その毎日の積み重ねにおいて用いられている言葉が、高度な内容を理解したり発信したりする力を育てるようなものになっているかどうかで、人間の脳の鍛えられ方に随分差が生じてくるのです。

 もう20年以上まえのことです。東京都立大学(現首都大学東京)の坂元忠芳先生の著作を読んでいたところ、子どもの「言葉遣い」と「学力」の相関関係について興味深いことが書かれていました。現在その本が手元になく、うろ覚えで恐縮ですが、大体次のようなことが書いてあってように記憶しています(記憶に多少間違いがあるかもしれません。ご了承ください)。

 坂元先生は、若い頃に小学校の教員をされていた時期があります。そのとき、担任をした3年生のクラスで気になることがありました。クラスの子どもたちは元気いっぱいで活動的であった一方、テストの成績が他のクラスと比較するとよくありませんでした。

 「なぜだろう」といろいろ考えたそうですが、先生はやがてあることに気づきました。クラスの子どもたちの話し方が、おしなべて幼いのです。短いセンテンスで、ぶつ切りの言葉でやり取りすることが多く、そのためか教科書や書物を通じた情報の理解も苦手なようでした。「そうか、もっと言葉を介したコミュニケーションの力を磨かなければ」――そう考えた坂元先生は、徹底的にクラスの子どもたちの言葉遣いを改めさせたそうです。(以下、次回に続きます) 

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カテゴリー: アドバイス, 子どもの発達, 子育てについて

自立勉強に向けた親の応援いろいろ

2009 年 3 月 23 日 月曜日

 家庭学習研究社にお子さんを通わせておられるご家庭の様子をお聞きすると、子どもの自立勉強をバックアップするための方法にはいろいろあることを教えられます。三つばかりご紹介してみましょう。

 一つは、賢明かつ効果的で、たくさんのご家庭で試みておられる方法だと思います。どういう方法かというと、「おかあさんにはわからないから、自分でやろうね」と、初めから親が手を貸さないことを宣言するというものです。これは、教えようにも教えられない場合、教えられるのにそうする場合を問いません。

 一旦親が手伝うのが当たり前になると、子どもはいつまでも親に頼ってきます。これでは、受験勉強を最後までうまく乗り切ることはできません。たとえ教えられるおかあさんでも、6年生の秋頃から取り組む入試問題には、そうそう歯が立つものではありません。この段階になって、ある日突然「自分でやりなさい」と言われても、子どもは途方に暮れるばかりです。ですから、初めから「教えない」「教えられない」と子どもに伝え、自分でやらせるようにするほうがよいのです。

 「だって、私ほんとうに子どものやっていることがわからなくて、とても教えられません。だから、自分でやってもらうしかないんですよ」と、笑顔で語られたおかあさんがおられます。そのおかあさんの息子さんは、素晴らしい取り組みをしている、学年指折りの優秀なお子さんでした。

 次は、「自立させる方法」とは言えないかもしれませんが、お子さんから聞いて印象に残っている話なのでご紹介します。ある日、6年生の男の子がおもしろいことを言ってきました。「うちのおかあさんたらね、ボクの算数のテスト結果を見ては目くじらを立てるんだけど、そのくせボクができなかった問題、何一つ解けないんだよ」――こう語ったその男の子の目は、愉快そうに輝いていました。

 それを聞いた筆者は、思わず笑ってしまいました。というのは、その男の子が12歳にして、もう「親は頼りにならない。自分でやるしかない」と自覚していることに気づいたからです。また、意図したわけではないにせよ、その子のおかあさんはわが子を立派に自立させておられます。きっと、おかあさんの愛情がたっぷりと注がれているのでしょう。その男の子は、平均より少し上の成績を推移していましたが、最後までがんばり通し、見事に志望校合格を果たしました。

 もう一つ。親としてサポートしてやれることを決め、それを入試直前まで継続しておられる家庭があり、大変印象に残っているのでご紹介してみます。ある年の1月半ばころでしょうか、一人のおかあさんからお電話をいただきました。

 「今、図書館にいるんですけど、6年生の息子に読ませるよい本をご紹介いただけませんでしょうか」 「6年生と言いますと、もうじき受験ですが・・・・・・」「ハイ、でも息子にとって本を読むのが唯一の楽しみなんです。親は、本を探してやることぐらいしかしてやれませんから」「わかりました。ちょっと待ってください」

 このとき、筆者は息子さんの息抜きになりそうな、とっておきの本を二冊ばかりご紹介したことを覚えています。正直言って、「入試直前に、わが子のために本を探すなんて!」と驚きました。そして、失礼ながら「よほどお子さんができるのか、逆にもう入試のことはあきらめているのか、どちらかだろう」と思いました。

 それから半年以上経ったある日、5年生の保護者の集まりのとき、一人のおかあさんが、筆者に「もしかして、以前電話で本をご紹介していただいた先生ではありませんか?」と、話しかけてこられました。5年部に弟さんが通っておられ、それでその日の集まりに来ておられたのです。それがきっかけで、そのときの6年生の息子さんが誰だかわかりました。驚いたことに、学年で三本の指に数えられる、優秀なお子さんでした。

 「こんなおかあさんをもったお子さんは幸せだ」と、つくづく思います。「子どもが優秀だから、そんなことができたのだ」とは思いませんでした。親としてしてやれることをする代わりに、受験勉強という息子さんの問題は、息子さんのがんばりを信じ、黙って見守ってやる。そんなおかあさんの姿勢が、息子さんを優秀な人間に育てたのだろうと思います。

 たくさんのお子さんを見てきた経験から言えることがあります。それは、「親が教えると、子どもは高い学力を手に入れるかどうかに関わらず、いつまでも自立できず、親に頭が上がらなくなる」ということです。この点において、親が教えるのは賢明な方法とは言えません。親の期待の根底には、「親の域を超えて欲しい」という願いがあるはずですから。

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カテゴリー: アドバイス, 中学受験, 子育てについて, 家庭での教育

きみの涙は無駄ではなかった!

2009 年 3 月 19 日 木曜日

 今日、広島市内では小学校の卒業式が行われます。6年間の小学校生活で子どもたちは著しい成長を遂げています。幼稚園を卒園するときとは違い、様々な感慨が胸にこみあげながらの卒業式であろうと思います。

 別れの悲しさがある一方、新たな出会いもすぐ先には控えています。そう、もうすぐ中学生になるのです。「中学校って、どんなところだろう」――子どもたちは、今から始まる中学生生活に思いを馳せ、その日の訪れを心待ちにしているのではないでしょうか。

 ただし、中学受験を経験されたご家庭においては、希望どおりの進路が得られず、まだ残念無念の思いを吹っ切ることができないでいるケースもおありかもしれません。そんな親御さんやお子さんには、一刻も早く気持ちを切り替え、次なる目標に向かってスタートしていただきたいと思います。

  私たちは、「入試の結果がすべてではない」と、つくづく思います。たくさんの子どもたちの中学受験に至る過程やその後を見ていると、重要なのは入試結果ではなく、「受験への挑戦のプロセスで何を学び、何を身につけたかなのだ」ということを、思わずにはいられなくなるからです。

 6年生の男子クラスを担当していた、ある年のことです。遠方から通ってくる、一人の男の子がいました。とてもまじめな勉強ぶりで、成績もよく、気になる点と言えば、まじめすぎる性格が、“融通の利かなさ”にもつながっているように見えたことぐらいでした。ともあれ、とにかくよく勉強するお子さんでしたから、まず受験は大丈夫だろうと思っていました。

 ところが、いざ入試が始まると思わぬ事態が待っていました。第一志望校の前に受けた二つの中学校の入試に失敗してしまったのです。おそらくまじめすぎる性格が災いして、過度の緊張に襲われたのでしょう。

 そして、いよいよ本命校の入試がやってきました。彼の成績なら、全力を出し切れたなら十分に可能性はあると踏んでいました。そこで、「きみの力を出し切れば大丈夫!」と、激励すべく、入試会場では真っ先に彼をさがしました。間もなく彼は見つかりました。ところが、様子が変です。出だしに失敗している彼は、もう緊張の塊と化してしまい、顔をこわばらせていました。

 「困ったな。どう声をかけたものか」と、思案しているとき、さらに運の悪いことが起こりました。周囲の受験生が、すでに終えた入試の結果のことを小声で話しているのを耳にしたのです。「受かっていないのは、ボクだけなんだ・・・・・・」そう言ってから、しばらく沈黙したあと、声をあげて泣き出したのです。大慌てで、人の少ないところに彼を連れて行き、檄を飛ばしたものの、もはや彼の目はうつろでした。そして、為すすべもなく泣き顔の彼を入試に向かわせることになってしまいました。

 結局、本命校の入試も失敗した彼は、最後に受けた中学校に合格し、そこへ進学することになりました。その中学校の入試当日には、朝暗いうちから駆けつけましたが、すでにご両親が中学校の建物の前に立っておられました(入試会場で彼のご両親を見たのは、これが最初で最後でした)。彼の姿が見えないので、おとうさんに聞くと「教室で瞑想しています」とのこと。そういうまじめさが彼の長所でもありますが、正直言ってそのときには、「もっと開き直れないものか」と、もどかしくさえ感じられました。

 こうした状況にあっても、泰然自若としておられたおとうさんおかあさんのご様子は、今でも忘れることができません。「これは彼が自分でしでかしたこと。それを自分なりに受け止めて反省し、乗り越えるしかありません」――これは、おとうさんがおっしゃったそのときの言葉でした。

 「これぐらいできるお子さんを、どうして志望校合格へ導けなかったのだろう」と、当時随分残念な思いに駆られたことを思い出します。

 その後、中学生になった彼から2~3度便りをもらいました。がんばっているようで安心しましたが、いつしか彼のことも記憶から消え去っていきました。

 それから何年か後、たまたま彼を知っている人から思わぬ情報を耳にしました。彼が国立大学の最高峰といわれる、あのT大学の法学部に合格したというのです。そのときは心底、「よかった!」と喜びと安堵の気持ちがこみあげ、また彼の奮起を讃えたい思いでいっぱいになったものです。

 そのとき、筆者はふと彼についてあることを思い出しました。国語が苦手だった彼は、よく筆者のところにやってきて補習を受けていました。みんなが問題をやり終え、最後の一人になると、「何でボクだけできないんだ!」と泣き出したこともありました。そんなある日、彼は筆者に「ボクは、将来弁護士になりたいんです」と目を輝かせて語っていたのです。

 「そうか、彼は自分の目標をずっと投げ出すことなく、がんばっていたのだ。入試での失敗にもめげず、ずっと彼は努力をしていたのだ」――そのことを知ると、改めて彼の真摯な姿勢に心を打たれるとともに、胸から熱いものがこみあげてしかたありませんでした。

 入試結果がすべてではない。この言葉を、「気休め」ととる人もいるかもしれません。しかし、彼のような受験生がいるという事実が、筆者たち受験関係者にそう言わせるのです。おそらく、このようなお子さんを見た経験は、どの学習塾の指導担当者にも少なからずあるのではないでしょうか。

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