知性の座である“前頭前野”の衰退が始まっている!?

2009 年 8 月 24 日

 ある日の朝のバス停でのことです。バスを待って立っていたおばあさんが、バスに乗り込もうとしたとき、今バス停に着いたばかりの女性が遮ってステップに立ちました。

 筆者はたまらず、その女性に向かって「先に待っていた方を入れてあげてください」と注意しました。こういう場合、無視されたり、にらみ返されたりすることが多いのですが、その日の女性はうなずいて従ってくれ、ホッとしました。

 広島市郊外とは言え、近所付き合いがまだ色濃く残っている地域のことです。町中と違い、先にバスを待って立っていた人を優先するというのが暗黙のルールです。しかしながら、最近ではこうしたルールが通用しなくなりつつあります。

 いつだったか、筆者が同じバス停でバスに乗ろうとしたとき、息せき切って駆けつけた若い男性が斜めから体を差し込み、先に入っていきました。「おい、そりゃないだろ?」と言いましたが、無視してその若者は空いている席に座りました。

 そこで、改めてその若者に「ちゃんとルールを守ろう」と言ったところ、いきなり大声で「何だ、おまえが座りたいんだろ! 座らせてやらあ!」と、わめき始めました。もはや、引き下がるわけにはいきません。なるべく小声でやりとりしながら、後部の二人がけの席が空いたとき、「あそこで話をしよう」と若者に伝えました。若者が応じたので、どうやって説得しようかと考えながら移動しました。

 しかし、そのときすでに若者は啖呵を切ったときの勢いを失っていました。隣りに座るなり、「さっきは引っ込みがつかなくて・・・・・・」と、もはや青菜に塩の状態です。実は、注意をした直後のやりとりの段階で、運転手さんには「喧嘩するなら降りろ」と言われました。筆者は「ルール無視」の若者を注意していたのですから、納まらぬ思いを禁じ得ませんでした。

 シャレオの地下街でもイヤな思いをしました。煙草を吸いながら歩く若者を見かね、「ここは禁煙ですよ」と声をかけたところ、すごいことになりました。しばらくその若者は沈黙した後、ファイティングポーズをとって、「ウォ~~!!」とうなり声をあげたのです。感情が高まると、もはや近ごろの若者は言葉を失い、獣と化してしまうのでしょうか。「腹が立つのなら、ちゃんと言葉で言いなさい」と言ってやりたかったのですが、恐怖感もあってその場をそそくさと立ち去るしかありませんでした。

 有名な脳科学者は、「近ごろは、知性の座である人間の前頭前野が退化しつつある」というようなことを述べています。歩きながらものを食べ、食べ終わると平気で容器などをあたりに捨ててしまう若者、車内で平然と化粧をする若い女性などの例を挙げながら、「人間が長い歴史を通じて発達させてきた前頭前野が、近年は衰退しつつあるのではないか」と、指摘していました。その歴史の積み重ねが、徐々に崩れつつあるとしたら、心配になってしまいます。

 これをお読みになったかたは、わが子の教育についてどう思われるでしょうか。学力さえあれば、人生を有意義に過ごせるという考えの人はおられないと思います。むしろ、「人間として健全で、社会の役に立てる人間に育ってほしい」と願っておられるのではないでしょうか。その意味において、社会のルールをしっかりとわきまえた人間に育てることは、極めて重要なことだと思います。

 子どもが思春期以前であれば、親の側にまだまだ絶対的な権威があります。その段階にこそ、ルールの大切さを教えるべきではないでしょうか。毎日の家庭生活において、気持ちよく毎日を過ごすためのルールを作り、みんなでそれを守る。子どもがルールを破ったときには、その結果を受け止めさせる。社会に通用するコモンセンスをもった人間に育てることも、学力形成面と並行して親は目配りをしておきたいものです。

 ところで、先ほどの脳科学者の話には、悲しいオチがあります。何とその学者が、勤務先の大学の女子学生にセクハラをして検挙されてしまいました。前頭前野の第一線の研究者が、自らの欲望に負けてしまったとは! 優れた脳科学者のもつ知性の座も、動物としての本能の求めには勝てなかったということなのでしょうか。

 才能溢れる人間も、社会的に許されない行為に及ぶと、それまでに築いてきた立場やステイタス、信用を一瞬にして失ってしまいます。そのことは、この学者のケース以外にもたくさんの事例をご存知のことと思います。学力形成の前に、親が大切にしている規範を子どもに伝え、まっとうに生きることのできる人間に育てておきたいものですね。
 

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カテゴリー: 家庭での教育

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