2011 年 9 月 のアーカイブ

子どもを勉強させるための常套手段

2011 年 9 月 26 日 月曜日

 大人は子どもに勉強してほしいと願います。今のうちにしっかりとがんばっておけば、それが必ず本人のためになると考えるからです。そこで、あの手この手と子どもをがんばらせるための働きかけをします。これは親に限りません。学校の先生も、塾の先生もみな同じではないでしょうか。

 このブログを読んでおられるかたの大半は、中学受験生の保護者であろうと思います。どうですか? 親が何を言わなくても、お子さんはがんばっているでしょうか? 

 多くのおとうさんおかあさんは、こう言われるでしょう。「とんでもない。ちょっと目を離すと、すぐにテレビやゲームにかじりついてしまいます。わが子のやる気を少しでも活性化させようと、毎日苦労しています。受験生の親って、ほんとうに大変です」

 子どもをやる気にし、がんばらせる。それはとても難しい仕事です。今までに何度となく書きましたが、豊かな暮らしにあこがれ、欲しいものを買える生活を手に入れたいと願って勉強する子どもなど、今日の社会ではほとんど見当たりません。いわゆるハングリー精神に欠けた子どもが大半です。無理もありません。今日の時代の子どもたちは、かつて貧しかった時代の子どもたちがあこがれたもののほとんどを既に手にしているのですから。

 そこで多くの大人は、勉強を嫌がる子どもにこんなことを言います。「合格したら、好きなだけゲームをさせてあげるよ」「がんばって合格したら、しばらくは思いっきり遊んでいいからね。だから、とにかく合格するまでは辛抱して勉強しなさい」

 実際、受験が終わったとたん、ゲーム三昧の生活をしている子どもの話を何度も聞きました。第一志望校に入学してからも、ゲーム癖が抜けず、小遣いをすべてゲームに使ってしまい、心配したおかあさんが相談に来られたケースもあります。

 今がんばれば、後が楽になる。これはウソではありません。大人なら誰でもわかっています。しかし、そう言ったのでは、子どもには効き目がありません。「そう言って、また勉強させるんだろ」などと思いかねません。そこで、「今がんばっておけば、後は遊んでいい」になってしまうのでしょう。

 その結果、どういうことが起こっているのかと言うと、せっかく志望する中学校に進学したというのに、遊び癖をつけてしまい、宿題の提出もままならず、やがて勉強の見通しが立たなくなっていく子どもがどんどん増えているのです。

 すると、今度は学校のほうでも手を打たねばならなくなります。少しでも子どものお尻をたたき、勉強させないと、大学受験でよい結果を出すことなど、夢のまた夢になってしまいます。そんな子どもが続出したら、学校にとってゆゆしきことです。

 先日、高校生のサテライン指導をしている弊社の経営者が、「今見ている生徒が、私にこんなことを言うのだよ」と語りました。

 「先生は、『勉強は一生続けていくべきものだ。一生続けるためには、勉強の習慣を大事にしろ。自分で考える癖をつけたら、勉強だって楽しくなる。そうすると、勉強は一生モノになるんだぞ』などと言うけど、僕の行っている学校の先生は全然違うことを言うよ。『とにかく、今のうちに死にものぐるいでがんばっておけ。希望の大学に入りさえすれば、後は遊んだっていいんだから。とにかく、いい大学に入ることが人生においては大事だ』――大概の先生は、こんなふうに言うよ。いったい、どっちが正しいんですか?」

 無論、どちらの言葉も子どものためを思って言ったものです。このブログを継続して読んでくださっているかたはお気づきと思いますが、筆者も弊社の経営者が生徒さんに語って聞かせていることと同じ趣旨のことを、何度も書いてきたと思います(経営者と社員ですから当たり前のことですが)。

 問題なのは、「後で遊んでいいから、今はがんばれ」と言われ続けてきた生徒に、弊社の経営者や筆者が言っているような学習の本質論は通用しなくなっているということではないでしょうか。「合格したら、後は遊んでいい」などと本気で思う大人はいないと思います。しかし、一旦子どもをがんばらせるための方便としてそれを言ってしまうと、後で修正が利かなくなってしまうのです。

 わが子に勉学の道で大成することを望むなら、大人がどうすべきかは明らかです。勉強は、本来楽しいとは言いがたいものです。だからこそ、まずは「習慣化」をはかるのです。習慣として定まれば、やがては子どもにも勉強の面白みがわかってきます。そうなれば、やらずにはおれないものになるのです。そこから、子どもの大成の道が開けていきます。

 中学受験のプロセスで、こうした流れを少しでも多くの子どもに築いていきたい。弊社は、そのような願いのもとに小学生の学習指導にあたっています。それには、おとうさんおかあさんのご理解ご協力が不可欠です。今回お伝えしたことをもとに、今一度お子さんの現状を振り返ってみてください。そして、「まずは習慣化」を合い言葉に、わが子の成長に向けた応援をよろしくお願いいたします。

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カテゴリー: がんばる子どもたち, 中学受験, 勉強について, 子どもの自立, 家庭学習研究社の理念, 教育者とは

ゆっくりよく噛むと頭によいという話

2011 年 9 月 20 日 火曜日

 最近、街で歩きながらものを食べる若い人をよく見かけます。ジーンズ姿など、カジュアルな服装の若者が多いのですが、中にはスーツにネクタイ姿のビジネスマンや、かなりしっかりとした服装の女性(会社勤めのOL?)も見かけます。どうやら食べる様子や時間から言って、間食の類ではなさそうで、食事代わりにそうしているようです。

 近年は共働きの家庭が多く、仕事に応じてそれぞれ生活サイクルが違い、夫婦や親子揃っての食事が難しくなっているのでしょうか。一人住まいの若い人は、朝自分で朝食をつくって食べる習慣をもたなくなったのでしょうか。一人で食べることを孤食などと言うそうですが、どうなのでしょう。この言葉に、なんだか悲しげな響きを感じてしまいます。以前このブログにも書きましたが、これは日本だけでなく世界共通の現象のようです。

 筆者などは意識も生活習慣も古いタイプの人間です。三食必ずとり、早寝早起きが欠かせません。いくらファーストフードとは言え、歩きながら食べるなどということは到底できません。第一、そんな食事はおいしくとも何ともありません。

 先日見かけたサラリーマン姿の若い男性など、鞄を肘ではさみ、片手にハンバーガー、もう片方の手に飲み物をもち、交互に食べたり飲んだりしながら歩いていました。実に器用だと感心しつつも、「そんなにも忙しいのか」と首を傾げてしまいました。

 ところで、歩きながら食べることができるのは、そういった食べかたも想定したファーストフードが普及しているからでしょう。手に油が付くことなく食べられるよう工夫もなされています。また、あっという間に食事を終えることができます。急いでいるときには実に便利ですね。こういう食事には堅いものがなく、口に放り込めばろくに噛まなくても喉を通過していきます。

 ただし、こういった食事は子どもにはよくありません。塩分や糖分の摂りすぎにつながり、栄養バランスがよくありません。この話は、おかあさんがたには釈迦に説法ですから、これぐらいにしておきます。

 ここで本題に入りましょう。おたくでは、お子さんはゆっくりと食事の時間をとり、よく噛んで食べておられるでしょうか。脳科学の専門家によると、そのことは脳の発達にとってとても重要なことだそうです。

 基本は、口にしたものを二十回くらい噛むことです。おおよそそれぐらいの回数ということですが、子どもが小学生のうちにぜひとも習慣化しておきたいものです。以後の話は、みな前出の脳科学者の書いておられることの受け売りですが、成長途上にある小学生のお子さんをおもちのかたは、わが子を健康で優秀な人間に育てるためにも、是非参考にしていただきたいと思います。

 食べ物をしっかりと噛めば、脳の運動野が活性化します。そして、同時にものごとに取り組むうえでのやる気や積極性に深く関わる知性の中枢、前頭連合野を活性化します。これはネズミの実験ですが、同じ餌を固形で一定期間食べさせるのと、粉末にして試させるのと二通り試し、後で知能検査が行われました。すると、固形の餌を食べさせたネズミのほうがよい成績を得たそうです。

 食べ物をよく噛めば、味覚、視覚、嗅覚、体性感覚(外に出ている目や耳などとは異なる、皮膚や体内深部の感覚)などに関わる脳領域が刺激され、五感が研ぎ澄まされてくるのです。また、しっかりと噛めば記憶に関わる海馬を刺激する、コレシストキニンと呼ばれるホルモンが分泌され、記憶や学習の能力が強化されます。

 お子さんの毎日の食事の実際について振り返ってみてください。たいていの子どもは、ファーストフードの店が大好きで、弁当が必要なときにもお金をもってそういうところへお目当てのものを買いにいく子もかなりいます。また、堅い食べ物自体を嫌う子もたくさんいます。おたくではどうでしょうか。

 肉や魚、野菜類などをバランスよく摂り、しっかりと噛む食事をさせてやりましょう。

 なお、頭の栄養素であるブドウ糖は、食事後12時間までしかもちません。朝食を抜くと、夕食後つぎの日の給食までエネルギー補給がなされないことになり、勉強にも支障を来してしまいます。毎日三食を必ず励行したいものです。

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カテゴリー: 子育てについて

よい先生のちょっとした違い

2011 年 9 月 12 日 月曜日

 家庭学習研究社の経営者は、中学・高校生のための学習塾「フォルツァ」の経営者でもあります。フォルツァは、主として6カ年一貫教育の私学に通う生徒を対象として指導しており、中学生はグループ指導(学校の進度に合わせた指導)、高校生は代ゼミのサテラインを活用した指導を行っています。

 あるとき、子どもの指導について話をしていたら、経営者がサテラインを利用して勉強している高校生の指導について、興味深いことを言いました。これは、サテラインかどうかに関わらず、学習指導にあたる者としての基本的かつ重要なポイントであると思いましたので、ちょっとそのことについて書いてみたいと思います。

 経営者曰く。

 ダメな先生は、努力さえすれば必ず指導成果につながる大切なことを疎かにしているものだ。たとえば、サテラインで勉強している生徒に、「ここをやっておきなさい」と指示を出したら、その生徒が「やりました」と言うまでその生徒の取り組みをまるで見ていない。そればかりか、パソコンのある場所から立ち去り、休憩したりしている。取り組んだ結果を見てわかることは、その生徒が得た成果や抱えている問題点のほんの一部でしかないのに。大事なことは、その生徒が画面とにらめっこをしながら取り組んでいる、そのプロセスからわかるのに。

 よい先生はそこを心得ている。指示を出した後、さりげなく生徒のそばに立ち、取り組みの様子をじっと見守っているものだ。だから、生徒の答案からはわからないことまで掌握している。そういう情報のなかに、子どもが一歩前進するために必要な何かを見つけ出すヒントがあるものだ。だから、「やっておきなさい」と指示を出しっぱなしで席を離れてしまうような先生は、生徒に与えてやるべき大事なアドバイスができない。だからダメなんだよ。

 確かにその通りだと思いました。私たち、小学生の受験指導をしている者にも当てはまる話です。授業中、単元の大切な考えかたを指導した後、全員に例題に取り組ませることがあります。そんなとき、よい先生は教室全体をくまなく見渡し、今指導したことが子どもたちに浸透しているかどうかを確かめます。

 よくわかっていれば、子どもたちの大半がすらすら解いているでしょうし、わかっていないようなら鉛筆が動いていないものです。首をひねったり、しかめっ面をしていたりする子どもが多ければ、指導が徹底していないのです。子どもたちの反応の微妙な違いを見極めている先生は、ヒントを出したり、フォローをしたりする必要性があるかどうかを、上手に判断することができます。

 しかしながら忙しく働いていると、ついつい子どもに作業をさせている間の時間も惜しくなります。たとえば、返し損なっている小テストがあれば、その採点をしたくなってしまうのです。「子どもたちがせっかく取り組んだテストだから、少しでも早く採点して返してやらねば」という熱意の表れだったとしても、これはまずいやりかただと言わざるを得ません。

 学習指導の現場に立つと、「どう説明すればわかりやすいか」「子どもをどう励ましたらやる気になるか」ということには熱心になります。しかし、先生として見落としてならないことが他にもあるのだということを、つい見失ってしまうことがあります。

 弊社の経営者は、すでに70数歳。今でもサテライン指導の現場に立って高校生の指導に情熱を燃やしています。若い頃は算数・数学を指導していたのですが、この年齢になってから必死になって勉強し、今は英語も教えています。若い頃には、子どもたちをぐいぐい引っ張り、やる気を引き出すのに非常に長けていたと聞いています。

 家庭学習研究社は、その経営者の指導力で大きくなった学習塾です。現場で子どもたちの指導にあたっている者は、この経営者のよいところを見習い、少しでも受け継いでいきたいものだとつくづく思う次第です。

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カテゴリー: 勉強について, 家庭学習研究社の理念, 教育者とは

勉強は自分のためにするもの

2011 年 9 月 5 日 月曜日

 前回のブログ記事は、「なぜ勉強をしなければならないのか?」という子どもの疑問に対して、親としてどう答えるかを考えていただくようお願いして終わりました。どうでしょう。「こう言ってやりたい」という明確な答えが見つかったでしょうか。

 一昔以上前なら、子どもの側から「貧しさから抜け出すため」「社会に役立つ人間になるため」「病気の人を助けたい」などという動機がありました。しかし、何もかも恵まれている今日の子どもたちにとって、勉強は「なぜしなければならないのか」という疑問の対象になりがちです。

 少し話が横道にそれますが、先日新聞に興味深い記事がありました。あの東日本の大震災後、東北地方の学校ではいじめが激減し、学校の授業が以前よりもスムーズに行われるようになったそうです。平穏無事に暮らせること、勉強できる環境があるということがいかに有り難いことかを、子どもたちが身にしみて感じたからであろうと思います。

 この話に照らすなら、なぜ勉強をしなければならないのかという疑問がわいてくること自体、おかしなことなのかも知れません。勉強を心おきなくできるということは、無条件に幸せなことなのですから。

 さて、「なぜ勉強しなければならないの?」という子どもの疑問に対して、元校長先生はどういう答えを用意されていたでしょうか。ご紹介しましょう(字数の関係で、若干調整しています)。

 私はふだん生徒にこんなことを話しては、ともに考えるようにしています。

 「人間の最も幸福な一生とはどういう生き方を言うのだろう?『鳥の死なんとするやその鳴き声よし』『人の死なんとするやその言よし』と昔から言っているが、自分の限りある人生、生命を自覚したときには、人間は必ずよいことを言い、自然に世の中の役に立つ、人のためになる何かをしたくなるものなのだ」と。

 「きみたちが勉強するのは、結局はそのためなんだ。しかし、初めから世のため人のために役立つことを考える必要はない。まず、自分を磨き、鍛え、自分の幸福を追求しろ。自分に厳しい態度をもち続けられれば、いつか自然に人の役に立てるようになる。それが最高の幸福ではないだろうか」

 いささか理想論過ぎ、いかにも世間知らずの教育者の弁と受け取られるかも知れません。しかし、子どもを説得するためには、あくまで、理想を提示しなければなりません。子どもというのは、親には想像もできないほどの向上心と、理想に対するあこがれをもっているものなのです。その理想を、現実の場に押し当ててねじ曲げる権利は親にはありません。

 「なぜ勉強しなければならないのか?」を教えるのは男親の役割です。父親がいなければ、おじいちゃんでもよいでしょう。男というものは、ロマンチックにできています。人生の理想を語るには、母親よりも父親のほうが都合がいいのです。

 「努力して勉強するのは、他人のためではない。おまえが毎日の生活を楽しく、退屈しないよう、豊かに暮らすためなんだ」と教えてやってください。

 父親は、子どもにとって社会とつながっていく接点であるとよく言われます。最近は、共働き家庭が多いので、必ずしもそれは当てはまらないかも知れませんが、男の特性について書かれているような点から言っても、「なぜ勉強か」の答えは、おとうさんからお子さんに伝えるのがよいのかも知れません。

 ここまできて、ふと筆者はわが愚息とのやりとりを思い出しました。中学受験をめざして勉強していた5年生のころのことです。ふだんは頑固で親の言うことなど聞こうとしないわが愚息でしたが、人間としてどういう生き方をすべきか、今の自分のありかたのどこを反省すべきかについて一生懸命語って聞かせているとき、ふと愚息が目にいっぱい涙を浮かべているのに気づいて驚いたことがあります。

 先ほどの元校長先生の言葉のように、子どもには親が想像できないほどの向上心や理想を追い求める心があるのかも知れません。初めから子どもにやる気がないものと決めつけるのではなく、子どもにある向上心ややる気を信じて接してやるべきだったと改めて反省しています。もはや親の手を離れた愚息ですが、親の期待や愛情が少しでも伝わっていることを願うばかりです。

 親の目から見たら、子どもにはやる気も自覚も足りないように見えるものです。しかし、子どもの心には純粋な向上心や理想を追い求める気持ちがあるのです。親それぞれに自分の言葉で「なぜ勉強をすることが大切なのか」を語って聞かせてあげてください。これから先もおそらく親の心配の種は尽きませんが、きっとお子さんはそのときの親の言葉を忘れることはないと思います。

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カテゴリー: アドバイス, 子育てについて, 家庭での教育