2014 年 1 月 のアーカイブ

動機づけ理論と子どもの受験のプロセス

2014 年 1 月 30 日 木曜日

 「モチベーション」という心理学用語が、最近では一般的に使われるようになりました。何かの理由でやる気が減退したときは、「モチベーションが下がった」と言い、やる気が出てきたときには、「モチベーションが上がった」などと言います。そう、「やる気」や「意欲」を表す言葉なんですね。

 まもなく弊社では新年度の学習がスタートしますが、このモチベーションがうまく作用するどうかでお子さんの学習成果は大きく変わってきます。そこで、今回はこの「モチベーション」を話題にとりあげてみました。

 モチベーションは、日本の学術用語では「動機づけ」と言われます。動機づけには、「外発的な動機づけ」と、「内発的な動機づけ」の2種類があります。前者は他からの働きかけによってやろうとすることで、後者はそれをすることを本人が必要と考えてやろうとすることを言います。一般に、個人の自己向上心に基づいている後者の方が望ましいと言われていますが、もっともな話だと思います。

 しかし、現実に毎日わが子を見守っている親にとっては、そうした話は筋論にすぎません。「外発だろうが、内発だろうが、何でもいいからわが子がやる気になる方法はないものか」と、嘆くことが多いのが現実です。実は、そういう親の行き着く先は外発的動機づけしかありません。成績が上がったら、小遣いをやるとか、ほしがるものを買ってやるだとか、そのような話をよく耳にします。

 また、「がんばれ!」と何度も激励しても効果がないと、うるさく叱ってしまう(こうなると、「外発的動機づけ」というより、「圧力」というほうがふさわしくなりますが・・・)親も少なくないようです。

 結局、「子どもがやる気になる」という結果がほしいのですから、それが得られるなら内発か、外発かには、こだわる必要はないのかも知れません。

 20140130実際、外発と内発は対立的にとらえる必要はなく、外発であった学習が次第に変質し、内発的になっていくなどというように、「取り組みは連続的に移行するものだ」という考えかたが今では一般的になっているようです。初めは言われてイヤイヤやっていたのが、いつの間にか自分でもおもしろくなり、熱心に取り組んでいたなどということがよくあるものです。

 あるアメリカの社会心理学者は、こうした動機の質的変化を4つの段階に分けて分類しています。それは、外発から内発への移行を説明したものであり、実は中学受験をする小学生の子どもたちのたどる道筋にピタリ符合するものです。どういうことかを、ここで確かめてみましょう。

★第1段階…外的に制御された段階
 やりたいわけではないが、誰かからの働きかけでしかたなくやる段階。最も外発的に学ぶ状態です。「おかあさんに叱られるから勉強する」「勉強しないと小遣いがもらえないので勉強する」「先生の命令で勉強する」などが当てはまります。子どもの勉強の場合、大人に叱られるから、命令されたから、するように言われたからするといったように、この「第1段階」に当てはまるケースが大半を占めるのではないかと思います。受験をめざした塾通いも、親の意向を反映してのことが多いようです。
<親に言われて、とりあえず学習塾通いが始まった段階>

★第2段階…注入の段階
 「成績が下のほうだなんてはずかしい」「このままでは叱られるから、やっておかなくては」など、一応は自分の意志でやろうとする状態を言います。表面上は自分の意志でやっているように見えるだけではあるものの、完全に外からの圧力でやらされているわけでもない、そんな段階です。初期の「第1段階」と比較すると、内発への移行の兆しが見え始めます。
<塾の成績がよくないとイヤな気分になるので、それなりに取り組む段階>

★第3段階…同一化・統合化の段階
 「これをしておくことは大切だから」という必要感から学ぶ状態を言います。先々したいことがあり、そのための準備としてやっておくべきことを学ぶなど、自分がそれを学ぶことによるメリットを自覚して自分からやろうとします。自らの考えと行動を一致させていることから、同一化の段階・統合化の段階などと言われます。この段階にいたると、他者からの働きかけよりも、本人の気持ちの比重が高くなってきます。
<受験生の自覚が芽生えてきた段階、勉強の必要性を自覚し始めた段階>

★第4段階…内発的に動機づけられた段階
 「この勉強をやると、得をするから」というよりも、「この勉強がおもしろいから」、「これをもっと詳しく知りたいから」などの理由で勉強する段階を言います。何かを達成するための手段としてではなく、知ること自体を志向し自己目的的に学ぶ状態ですから、これが最終の内発的に動機づけられた段階と言えます。そもそも、人間の“学び”は何かの手段ではなく、知りたいという人間の本質的欲求に根ざすものであり、ここに到達すると深い学びの領域への進展が期待できるようになります。
<勉強のおもしろさや醍醐味を味わい、率先して受険勉強に打ち込む段階>

 小学生の子どもが、自分から「中学受験をしたい」と親に申し出て受験勉強を始めるケースはそんなに多くありません。むしろ、本人はまだ「受験の何たるか」がよくわかっておらず、親の勧めで気がついたら塾に通って勉強していた(させられていた)などというケースのほうが多いのではないでしょうか。そうして、受動的にではあるものの学習塾に通いながら勉強しているうちに、徐々に勉強の様子に変化が現れ始めます。

 中学受験の勉強には、どの教科にも子どもの知的好奇心を満足させる、結構奥の深い内容が含まれています。それにふれる体験をしているうちに、勉強がおもしろくなっていくのです。また、受験勉強期にあたる小学校中~高学年は、人生でもっとも心身の成長が著しい時期です。子どもの内面の成長が進んでいくと、次第に「勉強は自分にとって必要なものである」と認識するようになります。それが勉強への取り組みを大きく変えていくのです。そうして、6年生にもなると、受験に対する意識、進学目標校などが定まり、子ども自らが率先して学ぶようになっていきます。

 ただし、そうなるかどうかは、ひとえに大人の働きかけにかかっています。初めから、「合格」を親が意識し、子どもを取り仕切って「勉強させる」と、子どもにとっては常に「やらされる勉強」になりかねません。

 お子さんの受験はまだだいぶ先のことです。親はわが子が理想のステップを踏んで成功への道をたどることを期待していいのではないでしょうか。そのための助走路をどう設定してやるか。それは親(大人)次第です。今のうちにおとうさんおかあさんがよく話し合い、お子さんの受験への道筋について十分に検討しておきたいものですね。

 弊社は、「親から与えられた受験を、最終的には子ども自身のものにする」ということを念頭に置いて学習指導を行っています。前述の4つの段階の移行は、その意味においても、弊社の会員児童がたどる理想的な受験への道のりだと言えるでしょう。

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ライバルや手本がいる環境が果たす作用

2014 年 1 月 27 日 月曜日

 学びで成果をあげるうえで重要な要素の一つに、「他者から刺激を受ける」「他者に教わる」ということがあります。ご存知のように、昔から「学ぶ」は「まねぶ」であると言われます。他者のよいところを参考にしながら自己に取り込んでいくことも重要な学びなのですね。

 特に小学生までの子どもの場合、「真似る」ことは学びの中心となる大切な役割を担います。ただ理屈を教えられるよりも、誰かに手本を示してもらい、同じことを実際にやってみるほうがはるかに実になります。

 中学受験に備えた勉強の場、すなわち学習塾での学びにおいても同じことが言えます。教科書よりも難しい内容の学習にあたっては、他者の考えや取り組みに学び、よい点を吸収することが大きな作用を果たします。また、常に高い次元へと進歩し続けるためには、一人で黙々と勉強しているだけではダメで、同じ目標をもった仲間と刺激を与え合ったり、競争したりすることが求められます。

 学校では見かけることの少ない優秀な仲間がそこここにいて、「あいつ、すごいな!」と感心しながら、その一方で「絶対負けるものか!」とライバル心に燃えて勉強に励む。そんなふうに学んでいるうちに、気がつけばいつの間にか一段、二段上の学力に到達していることに気づかされる。もしもお子さんがそんな環境に恵まれたなら、どんなにかすばらしいことでしょう。

 ただし、ライバルや手本がいれば必ずよい影響を受けるとは限りません。たとえば、自分よりも遙かによくできる秀才だらけのクラスで学んだらどうでしょう。大変な刺激を受け、みるみるうちに学力は伸びていくでしょうか(これを「栄光浴効果」と言うそうです)。

 心理学者の著書に、こうした刺激が人間にどのような影響を及ぼすかを実験で調べた例が紹介されていました。ちょっとご紹介してみましょう。

 その調査では、大学生に、自分と同じ学部の優秀な大学4年生についての新聞記事を読んでもらった。そこには、その人のすばらしい業績がずらりと並べられている。強制的に優秀な大学生と自分を比較させられた格好だ。そして、新聞記事を読んだ後に、「頭がよい」、「有能である」、「野望にあふれている」といった項目に対して、自分がどのくらい当てはまるのかを評価してもらった。

 その結果は、調査対象者が大学1年生の場合と、大学4年生の場合とでは異なったという。調査対象者が大学1年生の場合には、優秀な大学4年生の記事を読んだ後に、自分に対する評価が高くなった。一方、調査対象者が大学4年生の場合には、自分に対する評価が非常に低くなった。

 1年生の場合、大変優秀な先輩の記事がプラスの作用を果たしたのは、「自分もこれからがんばれば、あの先輩のようになれるかもしれない」という励みを得られたからでしょう。先ほどの「栄光浴効果」がうまく作用したのです。

 ところが4年生の場合、同級生のすばらしい業績を知らされても、自分への励みにするどころか、「今さらどうしようもない」「自分と彼とは違う」というあきらめの気持ち、自己の無能感を引き出す結果にしかならなかったのでしょう。つまり、条件次第で効果がある場合とない場合とがあるようです。

 再び、弊社の教室に通って受験勉強をしている小学生について考えてみましょう。誰もがうらやむようなすごい成績をあげる子がクラスにいたらどうでしょう。そんな優秀な子が1人、2人ぐらいなら、「とても自分はああはなれない」と思ういっぽうで、「同じクラスにあんな人がいるのは誇らしい」など、肯定的な受け止めかたをする子どもも相当数います。自分の現実と比較し、無能感に苛まれたりやる気を喪失させたりする子どもはほとんどいないと思います。

 では、自分以外の大多数が圧倒的に優秀だったらどうでしょう。他の優秀な子どもたちの存在を励みにするどころか、無能感に打ちひしがれてしまうのではないでしょうか。「自分だけできない」という思いがどれだけダメージになるか、想像しただけでも辛い気分になってしまいます。

 小学生の子どもは、一体に楽天的(特に男子)で、あまり自分と他者を比較し、自己卑下に陥ったりすることはありません。しかし、それでも「自分は周りの子どもたちより能力的に劣っている」と感じるような環境にいると、自己の能力への懐疑心は時間が経つにつれて強くなっていきます。

 お気づきかと思いますが、他者に学ぶ、他者の存在を励みにするといっても、自分とかけ離れた能力のもち主ではプラスの刺激は得られません。自分よりも少し上の実力のもち主が一番手本として、ライバルとしてよい作用をもたらしてくれるのです。

 そのことは、子どもたち自身も気づいているようで、「マナビーテスト」の優秀者のリストを見て、自分よりも常に少し上の成績をあげている子ども(会ったことも、話したこともない子ども)に着目し、仮想の目標・ライバルに見立てて心のなかで競争しているという話をよく耳にします。これなど、なかなかよい方法だと思います。「がんばれば、その子よりも上の成績に到達するかもしれない」という期待感が、努力の積み重ねを後押ししてくれるのではないしょうか。

 また、同じクラスの子ども同士でも、だいたい似通った能力の子どもが互いをライバル視し、切磋琢磨しているようです。こういう友を得ると幸せです。たわいなく、「勝った」「負けた」と互いを比較しながらがんばり、もしもライバルが不振に陥ると、心配して声をかけたりしています。20140117

 こんなライバルを得るうえで、一役買っているのが「学力到達度クラス編成」です。校舎の規模にもよりますが、弊社の5・6年部はテストの成績状態を基礎資料にしてクラスを編成しています。これは、学力的に近い子どもたちを集めて授業をしたほうが、授業の的を絞れるので効果が上がるからです。その時点で「いい勝負」をする同じぐらいの実力の子どもが揃うと、クラスの雰囲気も活気が出てきます。

 あるとき、「うちの子は、できる子のクラスに入れてもらっていないから、できないままなのだ。一度、いちばんできる子のクラスに入れてみてくれ」とおっしゃる保護者がおられました。親としての気持ちは十分理解できるものの、もしその要請にお応えしても逆効果を招くのは間違いありません。できる子どもの集団特有の張りつめた雰囲気に圧倒され、お子さんはますます自信を失うだけです。

 心身ともに成長途上にあり、遊びたい盛りの年齢期に受験生活を送る。それは、子どもにとって楽なことではありませんが、よい学習環境を得ると人間は大変な変化を成し遂げるものです。よい手本とライバルがいる。それこそが「真似ぶ」段階にある小学生にとって最高の環境であり、自己のもつ潜在的な能力を開花させていくうえで欠かせないものなのです。

 同じ人間でも、よい環境を得た場合と、そういう環境に恵まれなかった場合とでは、人生の歩みは全く違ってきます。高いレベルの知力を養うには、そういうことへの志向性が高まるような環境に子どもを入れるに限るのです。

 弊社の提供する学習環境は、それぞれの子どもたちがめざす進路を得るためにあります。しかし、同じ目標をもつ仲間とともに競い、教え合い、励まし合いながら学ぶプロセスを通して、子どもたちが学ぶことへの高い志向性を携えた人間に成長したなら、そのことも受験での合格に勝るとも劣らぬ成果であろうと思います。

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カテゴリー: アドバイス, 中学受験

心に浸透する言葉、浸透しない言葉

2014 年 1 月 23 日 木曜日

 かつて同時通訳・作家として活躍されたY氏(故人)の著作を読んでいたら、「同じように音声として発せられた言葉なのに、強い印象とともに心に深く浸透する発言と、理路整然としているにもかかわらずほとんど印象に残らない発言とがある」という件(くだり)がありました。

 人の心に浸透する言葉、人の心に届く言葉を話すことは、社会で生きていくうえで求められる能力のうちで、最も大切なものの一つでしょう。子育てにあたっておられる保護者の方々にとっても、家庭教育の一環として「会話力のある子どもを育てる」ということは、わが子の将来に多大なプラスの影響をもたらすと思います。そこで、この問題についてともに考えてみたいと思います。

 テレビのニュース番組で、大臣や大会社の会長や社長などの偉い人たちが、頭を下げて謝罪しているシーンを見たことがおありだろうと思います。こういうシーンにおいて語られた言葉で、心に深く刻まれているものがあるでしょうか。おそらくほとんどのかたは、「紋切り型でどれも同じ」「形式的で空々しい」「棒読みをしているだけで、全然記憶に残らない」といったような反応を示されるのではないでしょうか。

 こうした点を指摘したうえで、この本の著者は希に強く記憶に焼きついている謝罪の言葉があることにもふれておられました。それは次のような言葉です。

①悪いのは私です。社員ではありません。
②もう何日も寝てないんだ。

 だいぶ昔のエピソードですので、この言葉に思い当たる節のあるかたは少ないかもしれません。①は、○○證券の社長さんが、会社の倒産にあたってテレビの前で泣きじゃくりながら話された言葉です。また②は、食中毒の事件を起こした○○乳業の社長さんが、繰り返される報道関係者の質問に閉口して、思わず口走ってしまった言葉です(内容的には謝罪の言葉ではありませんが)。

 なぜこれらの言葉が記憶に残るのでしょう。この本の著者は、「要するに、聞く者の意識に達する浸透力をもつ言葉は、一個人から、つまり一人の人間から発せられた言葉である」と述べておられました。

 多くのかたがご存知のように、公の場で代表者が発する言葉のほとんどは、官僚が書いたり、部下が書いたり、広報担当者が書いたりした文書を読み上げたものです。そのうえ、謝罪をしている人の大半は無表情で抑揚のない話しかたをします(「私が悪いわけではない」という思いがあるからでしょうか)。さらには、うつむいたままで視聴者のほうを見ていません(文書を読むのだから当然そうなります)。ですから、聞いている人は「立場上しかたなく、嫌々言っているのだろう」と感じ取ってしまいます。

 このように、同じように音声で発せられた言葉ですが、記憶に残る言葉とすぐに記憶のかなたに消え去ってしまう言葉があります。この本の著者は、人が発した言葉と、それを他者が受け止める際のやりとりを、次のように説明しておられます(少し調整しています)。

 個人が発する言葉というものは、その内容の是非正邪に関係なく、次のようなプロセスを経て生成するものと思われる。

まず話し手には、何か言いたい感情や考えが芽生え(概念①)、
それを表現するにふさわしい語や言い回しを探し当て(信号化)、
発声器官に乗せる(表現)。
この音声は聞き手によって聞き取られ(認知)、
意味が解読され(信号解読)、
話し手の言いたいことはおそらくこうだろう(概念②)と推測する。

20140123a

 概念①が概念②に近ければ近いほど、コミュニケーションは成立したということになる。話し手における言葉の生成過程は、聞き手におけるその解読過程と驚くべき対称形を成している。

(中 略) 謝罪する責任者の言葉が心に浸透しないのは、たとえ部下が作成した謝罪文でも、一語一語、再び己の感情と思考を通過させて、自分の言葉として発する(よき俳優は、このようにして台詞を生きた人間の言葉に変える)なら、受け取る側に与える印象は全く違ったものになるだろう。要するに、彼等が発する言葉は、一人前の言葉がたどる生成過程を経ていないのだ。そして、それはものの見事に言葉の聞き手における解読過程に反映される。何しろ、両者は対称関係にある。わかりやすく言うと、心から発せられない言葉は心に届かないということなのだが。

 筆者には、引用文の最後に述べられているゴシックにした部分が強く印象に残りました。一人前の言葉とは、「自分の感情や思考を通過させたうえで、自分の言葉として発せられたものなのだ」ということなのですね。そういうプロセスを経て発せられた言葉だからこそ、聞く側も話者の心を汲み取った理解が可能になるのでしょう。

 「わが子には、コミュニケーション力に長けた人間になって欲しい」と願うおとうさんおかあさんはたくさんおられると思います。その願いを実現させるためには、わが子が小学生のうちに「話すこと」「聞くこと」の土台をしっかりとさせなければなりません。

20140123a しかしながら、親子の会話というととかく親の側が言いたいことを一方的に伝えるだけで、子どもの話に耳を傾けるということが疎かになりがちです。子どもは、伝えるべきことを「自分の感情と思考を通過させて自分の言葉として発する」ということが上手にできません。その手本を示すのが親であり、練習をする子どもが話者を務めるときには、自分の気持ちをしっかりと言葉にして伝えられるようになるまで、辛抱強く相手をしてやる必要があります。

 そういうプロセスはまどろっこしいかもしれませんが、とかく親は言いたいことをさっさと伝え、子どもの言うことは聞いてやらないといった状況になりがちです。大人は忙しいからそうなるのでしょう。

 これは以前書いたことですが、親が上手な聞き役になってやらない限り、子どもは自分の思いを上手に発信できる話者にはなれませんし、相手の言っていることをしっかりと受け止める姿勢も身につけることはできないと思います。何しろ、子どもは日頃の会話を通じて「人の話は聞かなくてよいのだ」と親に教えられているようなものですから。

 保護者のかたには、「話す側の言葉の生成過程と、聞く側の解読過程は対称形を成している」ということを念頭に置き、日常の会話を通してわが子がしっかりとしたコミュニケーションのできる人間に成長できるような家庭教育の実践を心がけていただきたいと存じます。

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国語学習からみた4年部1年間の意義

2014 年 1 月 20 日 月曜日

 先週は、4年部で扱う算数学習の意義についてお伝えしました。4年部での学習指導は算数と国語の2教科です。そこで、今回は国語の学習についてもお伝えしてみようと思います。

 4年生ぐらいになると、これまで主として具体的な事物や事象を表す言葉を用いてやりとりしていた子どもたちが、しだいに抽象的な意味をもった言葉を理解し、使えるようになっていきます。それに伴って、言葉の使用状況や読書の内容が急速に変わってくることも珍しくありません。

 こうした変化は、子どもの思考様式を一気に大人の域へと近づけていくことになります。たとえば、一般論に当てはまる具体的な事例を自らの経験に基づいて示したり、逆にいくつかの具体的事項の根底にある共通性を見抜き、一括りの言葉で表現したりできるようになります。つまり、具体から抽象へ、抽象から具体へといった高度な思考のアクセスが可能となってくるのです。

 こうした子どもの変化は、国語の授業をしているときにも十分に感じ取れるものです。筆者が4年部の国語の指導にあたっていたときのできごとをご紹介してみましょう。なお、この事例はすでにこのブログでご紹介した記憶があります。お読みになったかたがおられるかもしれません。ご了承ください。

 世界の物語には、「三回繰り返しの法則」と言われる様式をもったものが多数あります。一つの物語が全体として三つの話で構成されているのですが、登場人物やできごとの内容はそれぞれ違うものの、話の根底にあるメッセージは共通で、同じことを三回繰り返す形式を言ったものです。このような物語を読むことで、子どもは先の予測をしながら物語を楽しむことを覚え、さらにできごとの本質を一般化して理解するというより高度な思考へと導かれていくのです。

 ある年、4年生の国語の授業をしたときのことです。この「三回繰り返しの法則」がはっきりと見て取れる物語を子どもたちに読ませる機会がありました。試しに、三つの話の共通性に気づいているかどうか発問をしてみたところ、個々の理解の度合いに随分バラツキがあることがわかりました。

 三つのお話の共通性にすぐさま気づき、物語の言わんとするところを理解できるようになった子どもがかなりいました。しかし、まだそれに気づくまでに至っていないお子さんも多くいました。そこで、少しヒントを言ってみました。すると、残りの半分くらいの子どもたちが、三つの話の共通性に気づいてくれました。しかし、それでも気づかないお子さんもまだいるようでした。

 20140120aおもしろいのは、読みの熟達度がこのように個々で全く違っているのに、子どもたちは一様に「この話は楽しい!大好き!」と反応することです。よいお話は、読みのレベルを超え、読み手に何らかの知的喜びを提供してくれるものなのですね。そこに読書の大きな価値を思わずにはいられません。

 さて、今ご紹介した話は、子どもの知的発達の節目が4年生という段階にあることを意味するでしょう。国語の読解力を試す中学入試問題には、具体的事例を一般化して述べたり、一般論に適合する具体的事例をつかみだしたりするものがたくさんあります。したがって、これから次第に本格化していく中学受験対策にうまく対応していけるかどうかは、言葉の抽象性を獲得していくこの流れにうまく乗れるかどうかにかかっているのだと言えるでしょう。

 4年部での1年間においては、「読書指導」を重要視するとともに、お話の根底にあるおもしろさやメッセージ性に気づくなど、これまでよりも一段深い読み取りができるようになることをめざします。こうした学習は、中学受験を突破できる読み取りの能力を養えるだけでなく、子どもたちを活字文化の継承者としてより高いレベルへと到達させてくれるでしょう。ですから、問題解法力の育成指導を始める前段階の学習として、とても重要なものだと弊社では考えています。

 早くから問題解法力の育成と称して、「素材文を素早く読んで問いに答える」といったような訓練型の指導をしても、文章の核心に迫る読みや深いレベルで味わう読解力は育ちません。そもそも素材文をもとに出される問題は、文章の大切な内容が読み取れているかどうか、文章の核心がつかめているかどうかを試すために出されるのです。したがって、そうした問題への対応力を育てるには、問題を解く練習をするよりもよい文章を数多く読み味わう経験を積むほうがはるかに効果的だと言えるでしょう。

 こうした考えもあって、弊社4年部ではテストにおいても、素材文をしっかり読み通すことをまずもって重要視し、虫食い問題をできるだけ出さないように心がけています。

 以上からおわかりいただけると思いますが、4年部では子どもたちに受験をあまり意識させないようにし、「まずは、子どもたちに文章を読み味わうことの楽しさや醍醐味にふれる体験を提供すること」「文章を深く読み味わえるポテンシャルを築くこと」に重きをおいた指導を心がけています。そのほうが学力の到達点は高くなりますし、先々の長い読書生活を充実させるための土台づくりにもなるのではないでしょうか。20140120b

 なお、既に何度も書いてきたことですが、「活字を読んで、その意味を理解する力」は、すべての教科の学習を支える基本的能力です。その意味において、4年部の1年間の国語指導は、5年部から始まる4教科の受験対策を効果的なものにするための重要な役割を担っています。

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いざ本番へ万全の態勢で!

2014 年 1 月 16 日 木曜日

 先日、広島県西部地区の中学入試解禁日が近づいたことを受け、最終調整段階の留意事項について書きましたが、あっという間に本番が目の前に迫ってきました。そこで、今回は入試前日から当日にかけての留意事項についてお伝えしておこうと思います(詳しくは、「保護者説明会」の資料で御確認ください)。

  20140106aまず入試の前夜には、必ず試験で必要なものを漏らさず最終点検しておきましょう。前の晩では対処できないこともありますので、今から親子でチェックし、慌てることのないようにしておきたいものです。

 毎年、入試会場で受験票や筆記用具、時計など、大切なものを忘れておられる親子を見かけます。お子さんも保護者も我知らず普段と違う心理状態に陥ってしまい、あり得ないような忘れ物をすることが希にあるようです。うっかりしがちな男の子の場合、念のために親子で早めにチェックしておくほうがよいかもしれません。

 前の晩は、いつもと同じ時間に床につくのがいちばんよいと思います。早すぎて寝付かれなかったりするお子さんもおありでしょう。遅すぎての寝不足はもっといけません。言わずもがなのことですが、もはや勉強には深入りしないようにしてください。

 いよいよ当日の朝ですが、朝御飯はきっちりと摂るようにしましょう。脳の栄養源はブドウ糖です。このブドウ糖は、1回の食事で12時間分しかつくれません。夜の食事で賄われたブドウ糖は睡眠中も消費されます。ですから、朝食を摂らずに入試に臨むと、いちばん脳を働かせるべきときにエネルギー源が枯渇してしまいます。普段通り必ず朝食は摂っておきましょう。

 ただし、大食いは禁物(そのおそれがあるのは男子でしょう)。ご存知と思いますが、人間の脳は少し空腹感を覚えるぐらいの状態のときに最も研ぎ澄まされます。普通に食べて試験に向かえば、試験の最中にちょうどよい“少し空腹”の状態が訪れます。普段通りの朝食で試験に臨みましょう。

 服装にも少し注意が必要です。コートを脱いだ状態から、もう一枚着脱できるような重ね着が望ましいと思います。試験会場の教室の温度がちょうどよいとは限りません。温かすぎると感じたとき、1枚脱げるようにしておくと微調整が可能になります。

 脳の働きにとっていちばんよいのは、少し寒さを感じるぐらいの温度です。そうすると、脳の危険回避本能が働き、注意力や判断力が研ぎ澄まされるのです。温かすぎると眠気が生じたり、注意散漫になったりしがちです。その意味においても、重ね着に少し配慮しておく必要があります。

 それから、入試の開始時刻は学校によって違います。受験校の試験開始時間はしっかりとチェックしておきましょう。これも言わずもがなのことですが、毎年どの中学校の入試においても試験開始間際に血相を変えて校内に飛び込んできておられる親子を見かけます。そんな事態になったら、下手をすると今までの苦労が台無しになってしまいかねません。くれぐれもご注意を。

 この点にもからみますが、入試会場へは早めに到着しておくに限ります。弊社では、「試験開始の30分前には到着しておきましょう」とお伝えしていると思います。筆者は、個人的にはもっと早くてもよいと思います。

 なぜなら、普通のお子さんの場合、試験会場に到着して10~20分ぐらいは緊張と不安でかなり動悸が激しくなります。このドキドキ感を鎮めるには、普段一緒に勉強している仲間や友だちと話をするのがいちばんです。また、指導を担当していた先生に声をかけてもらったりしていると、気がつけばウソのように普段と変わらない自分を取り戻しているものです。

 そういった時間の余裕をもたせるためにも、少し早すぎるぐらいに入試会場に着いていたほうがよいと思います。あいにく下見ができなかった学校の試験ならなおさらです。早く着けばその分、教室の確認なども落ち着いてできるでしょう。

 なお、試験日が平日と土曜・日曜では交通事情が全く変わります。女子の中学校は開始時間が早いので、平日に試験が行われる場合、特に注意しておくことが大切です。また、広島大学附属中学校の入試当日は、周辺で交通渋滞が発生することが多いものです。路面電車なら大丈夫でしょうが、タクシーや自家用車を使用すると渋滞に巻き込まれるおそれがありますので十分ご注意ください。

 最後になりますが、いくら注意を払ったつもりでも風邪をもらってしまうこともないとは言えません。その場合の留意事項については、校舎担当者からお伝えしているかもしれませんが、その旨を係の人に伝えたら、たいていは保健室受験をさせてもらえます。あきらめないことです。いくら熱があっても、「この学校にどうしても入りたい」という意志を強くもっていれば、試験中は思考力や集中力が普段とあまり変わらないぐらい働くものです。

 以前、試験当日40度もの熱を出してしまったお子さんがいましたが、保健室受験で見事に合格を得たことがあります。そのお子さんは合格した後、「必死だったことしか覚えていない」と語っていましたが、いざとなると人間は悪コンディションも物かは、がんばり通せるのだということを教えてくれる話ですね。20140106b

 とはいえ、お子さんがベストコンディションで入試を迎えるに越したことはありません。今から当分の間は、無理をしないで心身のコンディションを最高の状態に保てるようご留意ください。

今度の日曜日(19日)には、受験生への弊社指導担当者からの応援メッセージを掲載した新聞チラシを折り込みます。20代、30代の若手担当者の合作で書いたものです。よろしければ親子でお読みください。

 お子さんがもてる力を存分に発揮され、見事志望校合格を達成されますよう心よりお祈り申し上げます。

 

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