2014 年 7 月 のアーカイブ

学力形成の基盤は家庭の豊かな会話にある その2

2014 年 7 月 28 日 月曜日

 前回は、子どもが家庭でどのような会話をして育ったかが、知的能力の形成に多大な影響を及ぼすということを踏まえ、会話を成立させるうえで中心となる「聞くこと」「話すこと」の役割と重要性について考えてみました。

 家庭で慣れ親しんだ会話のスタイルに優劣はありません。ただし、教育の場で用いられる言葉と隔たりが大きければ、子どもにとってある種のハンディになってしまいます。込み入った思いや、複雑な事象についてのやり取りを可能にする話しかたを耳にしたり身につけたりする機会に恵まれていれば、子どもは自然とそういう会話環境に適応していきます。その意味において、会話環境は子どもの知的成長にとって大変重要なものなんですね。

 さて、小学校という正式な学習の場に参入した子どもたちは、いよいよ「読み・書き」の学習を開始し、少しずつ学問の世界へと足を踏み入れていきます。

20140728a まず、「読むこと」から子どもたちの学習のステップをみていきましょう。ただし、読みの力をつけるプロセス、特に音読についてはすでに何回もお伝えしています。そこで、今回は読みの力を養ううえで見落とされがちなこと、気をつけたいことに着目して書いてみようと思います。

 当然ですが、「読む」ためには文字を知らなければなりません。小学校に入ると、文字を一から学習していきますが、大半の子どもは就学前にひらがな71文字のうちの大半を読めるようになっていると言われます。なかには、漢字の読み書きもかなりできるようになった子どももいます。

 では、先行体験は有利に作用するのでしょうか。そう思う人が多いから、早期教育が盛んなのでしょう。しかし、実際には逆効果をもたらすこともあるようです。というのは、先行体験が「親に要請されたから」「親が喜んでくれるから」といった受動的な理由によるものである場合、かけた時間や労力に見合うほど成果につながりません。むしろ、後から学び始めた子どものほうが、「文字って便利だな」「おかあさんに手紙が書ける!」といったように、文字の機能性に着目し、それを文字学習への意欲につなげていくため、進歩が早いと言われます。そうなると、小学校入学当初の差は、1年余りであらかたなくなってしまいます。

 文字の習得がある程度進むと、子どもは簡単な文が読めるようになり、さらには短い文章も読めるようになっていきます。こうした学習のプロセスでの「読み」は、音読によるものです。詳しくは書きませんが、音読を十分に経て自然と黙読へ移行するのが自然な流れです。

 一般に、黙読は2年生の前半~中盤頃可能になると言われます。文字列を声に出して読みながら、自分の耳で既知の音声言語(話し言葉)と照合していくことの繰り返しで、子どもは徐々に文字列を視覚でとらえた瞬間に、言葉のまとまりを仕分けられるようになります。それに連れて読みは正確で速くなっていきます。そして、やがて文字情報を視覚でとらえると同時に、それに対応する音声の言葉を脳内でイメージできるようになります。これを音韻表象と言いますが、音韻表象ができることで、子どもは声に出して文を読まなくても文の意味を理解できる(黙読できる)ようになります。

 黙読は、読みの負担を著しく軽減します。読みの負担が少なくなると、子どもは自然と本を読むことへの意欲を高めます。そうして、読書活動がいよいよ本格的なものになっていきます。

 高学年になった子どもの読解力不足を心配する声をよく耳にします。これは子どもの能力の問題ではなく、黙読への移行プロセス、とりわけ音読の不足がおおもとの原因で、そのために読みが不正確で遅いなどの問題が生じたためではないかと思われます。上手に滑らかに文章を読めないと、誰でも本を読むのが億劫になるものです。決して本嫌いだから読まないのではありません。

 子どもが本の世界に入り込み、夢中になるのは黙読が安定軌道に乗る3年生頃からです。それから1~2年間のうちに、みるみる子どもは語彙を増やし、読みのレベルアップ、思考のレベルアップを果たしていきます。そうしたプロセスを経験していれば、読みの習熟不足、読解力不足の問題は解消できます。

 こうした読みの習熟、思考のレベルアップを果たすうえでの土台となるのは豊かな会話を通して築いた「聞くこと」「話すこと」の力です。読みの能力を身につけるには、文字列を声に出して読み、その声を耳でとらえ、既知の音声言語との照合を絶え間なく繰り返さねばなりません。この作業は、話し言葉の使用状況が豊かであればあるほどスムーズに行えるでしょう。

 20140728b  次に、「書くこと」について考えてみましょう。書くことについても、小学校入学の時点で自分の名前を書ける子どもはたくさんいますし、簡単な文を既に書けるようになっている子どもも少なくないと思います。

 ただ、書くことは読むことよりも難しい要素があります。まず、小学校に入学したての子どもは指の筋肉が未発達なため、書くという作業自体がままなりません。それに加え、自分の考えたことを頭に思いめぐらせながら文にすることは、小学校に入学したての子どもにとっては至難の業です。第一、「誰が読むのか」を想定しながら書くのは大変高度な知的作業です。

 そのため、小学校1年生でまともな作文を書ける子どもはごくわずかだと言われます。これは、2年生になってもそう変わりません。学者の調査によると、1年生の作文の総文字量と、2年生のそれとを比較したら、大きな違いが見られませんでした。この時期、「うちの子は書くのが苦手」というおかあさんが多いようですが、実は「書けなくて当たり前」なんですね。

 ただし、日記を日課として定着させたり、親子の交換日記を行ったりするなど、書くということを子どもが継続的に行うようになった家庭では、目に見えない変化が着々と進んでいきます。文字量こそ急激には増えないものの、書いている内容が徐々に進歩していくのです。

 そうして、目に見える大きな変化が3年生の頃やってきます。いつの間にか、子どもはかなり長い文章を、それもある程度構想立てて書けるようになっていくのです。1~2年生のころまで、書くことに取り組んでいた子どもも、書くことを疎んじていた子どもも、同じように書く能力が身についていないように見えたのが、ここにきて一気に差が表面化するのです。そして、ここで明らかになった差は、放っておくとどんどん広がっていきます。

 この「書くこと」に関しても、土台となるのは、家庭で磨いてきた会話の力です。自分の考えをまとめて書くには、まず自分の頭のなかにある考えを思考のまな板の上に載せ、それを順序立てて言葉で組み立てていく必要があります。これは、会話のときと同じです。書く場合、それに書こうとする内容のコマンドを信号によって運動野を経由して筋肉運動に変える作業を加えることになります。発信したい情報をまとめるまでは基本的には同じですから、家庭で豊かな会話生活を経験していることは立派なアドバンテージになるでしょう。

 以上のように、「聞く」「話す」「読む」「書く」は、すべて言葉を介した頭脳作業であり、互いに密接なつながりをもっています。子どもが成長し、学年が上がるにつれて「今更ついた差はどうしようもない」と、親があきらめてしまうケースがありますが、どのような年齢、学年であれ、「聞く」「話す」「読む」「書く」ことに関する力は、やったらやっただけのことがあるものです。20140728

 脳は、繰り返し入力された情報に順応していきます。書くことを繰り返していれば、必ず書くことを快適にやれる脳に少しずつ近づいていきます。小学生の場合、何年生でも繰り返し努力すれば必ず進歩していきます。筆者自身、このブログ記事を450回以上書いてきましたが、そのせいか、今ではA4の紙に2~3ページ程度の原稿は苦ではなくなりました。「繰り返し」と「努力」は偉大なものだとつくづく思います。

 最後に。家庭での会話のもつ重要性は、子どもが小学校に入学した後も、上の学年になってからも変わることはありません。毎日の会話を通して、子どもは相手の意図や気持ちを深く理解したり、自分の思いや伝えたいことを相手の誤解を受けないよう伝えたりする能力を磨いていく必要があります。また、家庭での親子の会話の際、お子さんが学校での様々な学習体験を通して成長しつつあることを実感されることも少なくないと思います。つまり、家庭の会話と学校での学習成果は、相互補完しながら子どもの知的発達を後押ししていくのですね。

 親にはやらねばならないことがたくさんあります。しかし、そういうあわただしい生活のなかでも、毎日少しでも結構ですから、楽しい親子の会話の時間を設けていただきたいと思います。それは、子どもの内面の成長にとってかけがえのない栄養になるでしょう。受験生活が始まると、「おしゃべりより勉強!」といった発想になりがちですが、小学生の受験においては、親子の会話も受験対策の一環と言ってよいほど重要なものです。

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学力形成の基盤は家庭の豊かな会話にある その1

2014 年 7 月 21 日 月曜日

 前々回、前回と、「家庭で交わされる会話の質」が子どもの知的能力に及ぼす影響について、専門家の知見をもとに筆者が考えたことをお伝えしました。

 お読みになったおかあさんのなかには、「じゃあ、子どもの学力が低かったとしたら、それは母親のせいだっていうの?」と思われたかたもあるかもしれません。確かに、小学生までの子どもの会話の主たる相手(先生)はおかあさんです。しかし、だからと言って、「自分の責任」という受動的なとらえかたはしないでくださいね。

 親が様々な配慮を重ねて子どもを立派に育てるプロセスは、負担であるいっぽう大きな楽しみでもあります。会話も、親子の心の交流の場になるし、そのなかにちょっとした工夫をすることで、子どもの望ましい成長を引き出すことができます。親子の会話が弾めば、おかあさんだって嬉しいですよね。「うちの子はもう大きいから…」と思わずに、今からがんばってみませんか?

 楽しい会話のやりとりは、子どもの思考力や表現力を鍛えるだけでなく、前向きな姿勢を育てます。すでに何回か書きましたが、おかあさんと心の通う会話をしているとき、子どもはおかあさんが自分に何を期待しているかを意識の片隅で反芻しています。会話の後、自然と子どもがおかあさんの期待に沿った行動に向かうのは間違いありません。どうでしょう。それだけでも大変な収穫ではありませんか?

 さて、今回の本題に入ります。「精密コード」に基づく会話(詳しくは前回の記事を参照ください)が、なぜ学力形成に有利なのかについて、もう少し詳しく考えてみようと思います。

 会話が支える学力要素は、主として「聞く」「話す」という側面であろうと思います。精密コードを基調とした会話で育った子どもは、学校で求められる「聞く」「話す」という行為への順応性が極めて高いのが特徴です。

20140721bまず、「聞く」ということについて。学校の授業を思い浮かべてみてください。まず何はさておいても、先生の言葉を理解しなければなりません。それができて初めて学習が成立します。ですから、家庭の言葉と学校の言葉との親和性が問われることになります。

 もしも家庭で、丁寧で改まった言い回しに慣れていたり、多少難しい言葉を投げかけられても理解できる語彙を養っていたり、少々複雑な構文に基づいた表現を受容できるレベルに耳を鍛えていたなら、学校で先生が用いる言葉に何の違和感も覚えず順応できることでしょう。

 ところが、それがうまくいかない子どもが一定数いるのです。端的な例が、前回ご紹介した「限定コード」に偏った会話で育った子どもです。限定コードの会話は、込み入った内容の伝達に向きません。センテンスは短く、省略が多く、感情が混じっており、学習に関わる内容の伝達には不向きです。ですから、学校で先生が使用する言葉とは大きな隔たりがあります。それが学習成果に影響してしまうのです。

 そして、もう一つ限定コードの会話に偏った家庭の子どもの大きな弱点があります。それは、先生の語りかける言葉を集中して最後まで聞き通す能力や姿勢に欠けるということです。ただし、近年は弊社の教室に通うような教育熱心な家庭のお子さんにも、同様の傾向が見られるように思います。

 ある年、4年部の開講行事を手伝うことがありました。初々しいやる気に満ちた子どもたちとの対面を楽しみにしていたのですが、いざ教室に入ってみると、思いもしない状況に至りました。「おはようございます!」と、元気いっぱいのあいさつをしてくれる子どものなかで、2~3人の子どもが後ろを向いて話し込んでいます。「おいおい、あいさつはちゃんとやろうね」と注意しても、自分に向けられた言葉だとは気付かないのか、相変わらず後ろを向いたまま。これには愕然としました。

 この種の子どもが、学力形成でうまくいくことはまずありません。なにしろ、学習上の伝達事項を聞くこともままならないのですから。聞く耳をもたない子どもは、自分が損をするだけでなく、ほかの子どもの勉強の妨げにもなります。

20140721c もう一つ、「話す」ことについて。最近の子どもは、上手に話すことが苦手です。上手に話すとは、相手や周囲に伝えたいことを、順序立てて、丁寧に、わかりやすく話すことです。

 話すことは、学校では発表の場などを通じて自分の考えを筋道立てて他者に伝えるという形で求められます。そういう経験の繰り返しを通して、伝えたいことを頭のなかで素早くまとめながら他者に発信する能力を養うことができます。それがプレゼン能力やでディベート能力の基礎になりますから、「話す」力も重要な知的能力の一部です。そして、この話す力は学年が進むにつれて重要性を増し、社会人になるとその人の知力を象徴する要素にまでなります。

 さて、小学生について考えてみましょう。早口にしゃべる子ども、おしゃべりな子どもならたくさんいます。しかし、そういう子どもも、いざ改まった場でみんなに何かをわかりやすく説明したり、自分の意見に説得力をもたせることが求められたりすると、大概はしどろもどろになるものです。

 話す力は、数多くの場数を踏んで磨かれるものです。人と話すことを十分に経験していなければ、決して話し上手にはなれません。生まれながらの資質ではないからです。ただし、会話の時間は長ければよいというものではないし、たくさんしゃべればよいというものでもないことは先刻ご承知でしょう。

 ここで、「話す」ことについての書き出しの部分でふれた、「最近の子どもは話すのが下手」という話に立ち返ろうと思います。なぜ下手なのかの理由を考えることが、上手に話す力を磨くための突破口を見出す切り口になると思うからです。

 話すのが下手なのは、充実した会話能力を獲得するための経験が不足しているからですが、そのチャンスを与えられる存在はおかあさんしかいません。なにしろ、うまくしゃべれない子どもの話を辛抱して最後まで付き合ってくれる人がほかにいるでしょうか。

 子どもは人生経験に乏しいゆえに話す能力が未熟です。だからこそ、おかあさんがわが子のもどかしい話しぶりを遮ることなく、最後までちゃんと聞いてやる必要があります。たいていの大人はやるべきことをたくさん抱えていますから、悠長に子どもの相手をしてやる暇はないかもしれません。しかし、子どもの知的能力の発達にとっては、大変重要な意味をもっています。なんとか、少しの時間でもいいから、お子さんの会話の相手を毎日務めてあげていただきたいものです。

 お子さんの話を最後まで聞き届けることは、もう一つお子さんの成長にとってかけがえのないものを生み出すことになります。すでに書いたことがありますが、おかあさんが子どもの話を最後まで聞いてやれば、子どもは、「人の話は最後まで聞くものだ」と悟ります。それが大きな作用をもたらすのです。

20140721a 先ほどご紹介した筆者の体験を思い出してください。開講式で、後ろの子に話しかけていた子どものことです。ああいう子どもには絶対になりません。おかあさんが、「人の話は向き合って聞き、最後まで聞くものだ」ということを教えておられるからです。

 「聞く」と「話す」、この二つは学力形成の基盤になるものです。この二つが確かであれば、いよいよ小学校への通学が始まり、「読む」と「書く」という学習に欠かせない活動が始まってからも、いささかも子どもは困ることはないのですから。

 次回は、「読む」と「書く」の発達について考えてみたいと思います。うまくまとまるか自信はありませんが、よろしければ読んでみてください。

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家庭の言葉と子どもの知力の相関関係 その2

2014 年 7 月 14 日 月曜日

 前回に引き続き、家庭での言葉の使用状況が子どもの知的能力に及ぼす影響について書こうと思います。やや堅い内容の話ですが、子育て、とりわけ知育に関わる重要な話題ですので、最後まで読んでいただけるとうれしいです。

 前回は、それぞれの家庭で交わされる言葉には暗黙のルール(言語コード)が存在し、それが教育の場で用いられる言葉、学問に適している言葉かどうかで子どもに備わる知的能力が違ってくるということをお伝えしました。

 このことを大がかりな調査・研究を経て発表したのはロンドン大学のバーンステイン教授でした。そもそもこの研究の発端は、イギリスの下流階級の子どもが貧しい生活から抜け出すことができない理由、また、中流階級の家庭の子どもが高学歴を得て高いレベルの生活を維持する傾向が強い理由を明らかにするためでした。そして、こうした階層格差が固定化される原因として、「家庭で用いられる言語の質」が深く関与しているという結論に至りました。

 では、中流の家庭で用いられている言葉(精密コード)と、下流の家庭で用いられている言葉(限定コード)には、どんな違いがあるのでしょうか。少し詳しくみてみましょう。日本の教育社会学者の書物に、両者の違いを簡単に比較した資料があります。
20140714a

 会話のセンテンスは、長いほうがより細かな意思伝達、より複雑な事柄の説明が可能です。また会話で用いられる語彙のバリエーションは、当然長いセンテンスでやり取りする精密コードのほうが豊かになることでしょう。したがって、会話を通してやり取りする情報は圧倒的に精密コードのほうが多いことになります。

 構文というのは、文の組み立て・つくりですが、センテンスの長い精密コードの会話では、必然的に「複文」「重文」などの複雑な構文が多く用いられることになります。それに対して、限定コードの家庭はセンテンスが短いので「単文」を用いることが多くなります。ご承知かと思いますが、複文とは、述語が複数ある文のことで、「重文」とは、主語・述語の関係が複数ある文のことです。複文や重文のほうが、より複雑な思考や事象の説明が可能なのは言うまでもありませんね。

 代名詞の使用についてはどうでしょう。目の前に会話の相手がいる場合、周囲にある物なら一緒に同じ物を見ることができますから、そのものの名前をわざわざ言わなくても「あれ」「それ」で事足ります。そこで勢い代名詞を用いて省略したくなるものです。この傾向が強いのが限定コードの家庭です。

 精密コードの会話が「論理的」で、限定コードの会話が「情緒的」であることから生じる違いは、どなたも納得されると思います。筋道立てて冷静に話すか、その場の感情に任せた言葉を発するか、どちらが子どもの知性を育むかは言うまでもありません。子どもがよくないいたずらをしたとき、「こら!」「ダメ!」「何やってんの!」と感情に任せて怒鳴るか、「それは危ないよ。怪我をするからやめなさい」「他の子の迷惑になりますよ。ちゃんと元に戻しておこうね」と、子どもに禁止の理由を説明するかの違いでしょう。どちらが子どもの思慮深さを育むでしょうか。

 「文脈独立的」と「文脈依存的」の違いについて。これは、言葉のみでコミュニケーションを成立させるか、その場面に至るプロセスや流れに依存しながらコミュニケーションを成立させるかの違いであろうと思います。精密コードの家庭の会話は、言葉以外の要素に頼らず、言葉を駆使して相手とコミュニケーションを図れるので、共有する体験をもたない人でも話を聞けば理解できます。こういう能力を培う土壌が家庭の会話にあれば、当然子どもの思考力や表現力はより高い次元へと導かれることでしょう。

 以上、二つの言語コードの性質をやや極端な対比で見てきました。会話の質が子どもの知力に影響を及ぼすことについては納得されたのではないでしょうか。ただし、なかには「うちでは限定コードを多用しているんだ」と、がっかりされたかたがおられるかもしれません。

  実際のところ、家庭内の会話が「精密コード」か「限定コード」かの二者択一で行われるなどということはあり得ません。会話の傾向が、どちらかに近いというのが多くの家庭の現実ではないでしょうか。また、普段は精密コードを基調とした話しかたをする人が、スイッチが入る(感情が高ぶるなど)と限定コードに切り替わってしまうということもあるでしょう。そもそも、特別に親しい間柄であれば、限定コードが多くなるのは当たり前のことです。ですから、今回ご紹介した説はあくまで原則論として受け止めていただければよいと思います。

  重要なのは、家族が共に暮らす家庭生活の中で、精密コードにも触れる体験をいかにして子どもにさせるかということではないでしょうか。

20140714b 「玉井式国語的算数教室」の創始者である玉井満代先生は、自身の講演会でおかあさんがさりげなく子どもの語彙を豊かにする会話を心がけることの重要性について語っておられました。たとえば、「今朝は、とても気持ちのよいすがすがしい風が吹いているわね」「平和公園で行われた式典は、厳かな雰囲気だったね」など、子どもが普段耳にしない言葉を聞かせ、その言葉に興味をもたせたり、その言葉の使用場面を理解したりするチャンスを与えると、子どもはそれを新たな語彙にできるのです。

 このように、普段の会話のなかに少し難しい言葉を挟んでみるのと同様、おかあさんが丁寧な言い回しを意識することも効果があるでしょう。日頃の家庭での会話では、とかく親は注意や叱責の言葉を乱発しがちですが、それでは感情交じりの限定コードによる会話にシフトしてしまいます。

  もしも、禁止する理由を筋道立てて伝え、なぜいけないのかを子どもに納得させる言いかたを心がけたならどうでしょう。それは精密コードにシフトした言いかたに他なりません。そうすれば、子どもも感情をあらわにした話しかたではなく、思慮深く考え、相手が納得するよう丁寧な話しかたを心がける人間に成長するのではないでしょうか。

 また家族がそろっているときの会話において、ときどきは互いの考えや意見を交換する機会を親が意図的に設け、話題について子どもが自分の考えを筋道立てて表現する場をつくってやることも必要でしょう。子どもが望ましくない行動に及んだときも、いきなり叱るのではなく、子どもに釈明の余地を与えてやれば子どもにとって考えながら丁寧に話す練習になります。そういう経験を繰り返すと、自然と子どもは複文構造、重文構造の複雑な構文の話しかたを自ら身につけていくのは間違いありません。

 さらに、子どもが多様な言葉の表現にふれる体験をするには、読書が一番効果的です。物語だけでなく、説明文や伝記などざまざまなジャンルの本を読めば、どんな場面でどんな言葉遣いをすることが望ましいかを自然と学ぶことができるでしょう。読書という仮の体験は、そういう意味でも子どもの成長にとってなくてはならないものです。

 このまま書いていくと、とんでもなく長くなってしまいそうなので、そろそろ切り上げようと思います。子どもを高い学力・知性のもち主に育てる要件の一つとして、家庭の会話に留意するということの必要性をお伝えしました。

  先ほどの2つの言語コードの比較表をよく点検してみてください。頭のよい人間になるための要素が何であるかが見えてきませんか? 家庭内の会話の質を上げるうえで、どんな点に気を配るべきかを確認のうえ、必要に応じて親が言葉の使用を考慮したり、言葉の体験に彩をもたせたりする工夫をすれば、それは必ずお子さんの内面の成長によい影響を与えることでしょう。

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家庭の言葉と子どもの知力の相関関係 その1

2014 年 7 月 7 日 月曜日

 人間の能力、適性、性格などを決定づけるうえで大きな作用を果たすのは、日常で繰り返し行っていること、長い時間をかけてしていることだと言われます。

 これに当てはまるのは何でしょうか。家庭での会話、食事、睡眠などでしょうか。これらは、人生を通してほぼ毎日繰り返しますし、かける時間も膨大なものです。幼児期~児童期は、人間形成の途上にありますから、これらが及ぼす影響がいかに大きいかは想像に難くありません。

 会話、食事、睡眠、いずれもすでに話題に取り上げたことがありますが、今回は会話、特に「家庭の言語活動」のもつ重要性について書いてみようと思います。

 小学校入学まで、子どもにとっての「言葉」は日常生活で交わす言葉を意味します。それ以外の言葉はほとんど知りません。では、「それ以外の言葉」とはどんな言葉でしょうか。たとえば、学校で先生が使用し、子どもたちにも使用することが求められる言葉がそれにあたるでしょう。つまり公の教育の場で用いられる言葉です。

 家庭で身につけた言葉(話し言葉)と、教育の場で使用される言葉(フォーマルな言語)のギャップが少なければ、子どもは違和感なく授業を受け、学習の成果をあげられることでしょう。しかし、現実には家庭で用いられる言葉と教育の場で用いられる言葉は同じではありません。また、同じにはなり得ません。

 学校では、「ボクは、~だと思います」「わたしも、○○さんの意見に賛成です」などのような言葉遣いが求められます。いわゆる「ですます調」の丁寧な言い回しで、誰が聞いてもわかるし、その場にいない人が聞いてもわかるフォーマルな言葉遣いが基本となります。

 一方、家庭内で気心の知れた家族と交わす言葉はどうでしょうか。もし、お子さんが突然「おかあさん、今日はよい天気ですね」「おかあさん、わたしの考えもあなたと同じです」などと言い始めたら、おかあさんはびっくり仰天し、「いったいどうしたの?」と、首をかしげてしまわれることでしょう。

 なぜこうした違いが生じるのかについては、ここでわざわざ説明する必要はないかもしれません。家庭での会話は、血縁で結ばれた家族という構成員間で行われます。毎日生活を共にしている人間同士ですから、言葉を尽くして説明しなくてもわかり合うことができます。また、常に一対一もしくはそれに近い形式で会話を交わすのですから、身振り手振りや表情もコミュニケーションをサポートしてくれます。必然、言葉は簡略になります。ですから、家庭内の言葉と学校という教育の場で使用される言葉とが違ってくるのは、至極当然の成り行きと言えるでしょう。

 問題は、家庭で普段用いられる言葉とは異質な言葉、大勢の人が一緒にいるときにコミュニケーションの手段として使用される言葉、より具体的には「敬語を適切に用いた言葉」にふれる経験を子どもがし、そういう言葉が使用される場面で理解することができ、自分も使えるかどうか。この差が、子どもの学力形成や知的能力の獲得に少なからぬ影響を及ぼすのです。家庭でフォーマルな言語を授けられないまま小学校に入学した子どもは、大概勉強で苦労を強いられることになりがちです。

 この記事をお読みになっているかたの大半は、もっと上の学年になったお子さんの保護者であろうと思います。しかしながら、そういう方々にとっても、大いに参考にしていただけることだと思って今回は話題に取り上げた次第です。

 「でも、うちの子はもう5年生です。今さら家庭での会話がどうのこうのと言われても変えようがありません」とおっしゃるかたもおありでしょう。しかし、お子さんは大人と比べてまだ吸収力に富んだ年齢にありますし、親が家庭内の言葉の重要性を踏まえて会話の時間に相応の配慮をすれば、お子さんの今後もずいぶん違ってくるのではないでしょうか。また、何歳であろうと家庭で交わす言葉はお子さんの人となりを周囲がどう判断するかに大きな影響を及ぼしますから、重要性は少しも変わりません。

 家庭での言語使用状況と子どもの知的能力に、高い相関関係があることを発表し、教育界に大きな影響を与えた学者がいます。ロンドン大学のバーンステイン教授です。

20140707a バーンステイン教授は、イギリスの下流階級の子どもが総じて学力的に恵まれず、低学歴のまま親と同じように貧乏な人生を送りがちであるのに対し、中流家庭の子どもは総じて高学歴で、大人になってからも高収入を得る傾向が強いことを受け、その原因を調べるための大がかりな調査・研究を行いました。そして、こうした階層間格差を生み出すのが、「家庭で使用される言語の質の違い」だと結論づけました。

 この説の趣旨を簡単に言うと、「日常生活における話し言葉には、それを共有している人のなかで暗黙のルールのようなもの(言語コード)が存在する」ということです。ミドルクラスの家庭で用いられる言葉は学問との親和性が高く、複雑な事象や考えを周囲の人間に伝えるのに適しています(精密コード)。いっぽう、ワーキングクラスの家庭で多く見られる、親しい間柄でのみ通用する省略の多い言葉遣いは、複雑な事象や考えの伝達には向きません(限定コード)。このような言葉の使用状況の違いが、階層間の格差を決定づけている」というのです。

 バーンステイン教授の「言語コード論」が発表されてから、すでに30数年以上経過していますが、今日においても世界中のに教育関係者に大きな影響を与えています。筆者自身、教育学者、教育社会学者、社会学者の書物で何度となくこの説が紹介されているのを目にしたことがあります。

 まだまだ続きが長くなりそうです。とりあえず今回はこれで終わり、次回は「精密コード」と「限定コード」の違いを具体的に比較したうえで、子どもの知的能力を高めるための大人の働きかけについて考えてみたいと思います。

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