世界中を席巻する“男子の問題”って!?

2016 年 12 月 26 日

 気がつけば、このブログも年内最終回となっています。1年が経つのは本当に早いものですね。みなさんにとって、この1年はどんな年だったでしょうか。

 中学受験に関わる広島県内の学習塾にとっては、相変わらず厳しい状況が長く続いています。少子化に歯止めがかからないうえ、中学受験熱が沈静化しつつあることが主要な原因でしょう(東京をはじめとする大都市圏では、相変わらず中学受験が盛んなようですが)。そのいっぽうで、学習塾の数が大幅に減っているのかというと、そんな話は聞きません。やがては一部の地域を除くと、学習塾の淘汰が進んでいくのではないかと思われます。

 弊社もこうした流れのなかで埋没し、存在感を失わないようがんばらねばなりません。来年度以降は、これまで以上に「子どもの望ましい成長に資する学習指導」の実現に向けて精進してまいります。また、子どもたちの合格の夢が叶うよう全力で応援してまいります。引き続きご支援をよろしくお願い申し上げます。

 先日、図書館でふと手にした本の題名が気になり、少し立ち読みをするや否やたちまちその内容に気持ちを奪われてしまいました。以前から気になっていた話題をとりあげたものだったからです。その話題とは、「男子の問題が世界中で深刻化している」というものでした。今回は、その本のごく一部にふれるに過ぎませんが、男子の何が問題とされているのかについてお伝えしようと思います。

 まずは、次の引用文をお読みください。

 「学力」のさまざまな側面のなかでも、ほとんどの国においてとりわけ「男子の問題」とされるのが、「読解力」である。これまでのPISAの結果を見る限り、ほとんどの参加国で、「読解力」に関する男子の平均得点は女子のそれを有意に下回っている(国立教育政策研究所2015)。また、義務教育修了後の進学動向において、女子の方がよりアカデミックなタイプの学校へ進学する割合が高い国も目立つ。たとえばアメリカでは、2007年に学部(undergraduate)レベルの高等教育機関に入学した女性は、男性の1.3倍であった。ドイツでも、中等教育段階で最も学力が高いとされる学校種である「ギムナジウム」への進学者は女子の方が多いし、1970年には6割を越えていた一般大学入学資格取得者に占める男子の割合は、2002年には44%にまで低下している。

 さらに、男子の学校生活や社会生活への不適応を示す例としてしばしば挙げられる次の諸傾向も、各国でほぼ共通して見られるものである。すなわち、男子は女子に比べて、学習活動に積極的に参加したり学校生活を楽しんだりする度合いが低いこと、特殊教育で学ぶ生徒の割合が高いこと、学習障害と診断される率が高いこと、後期中等教育段階での留年率が高いこと、自殺率が高いこと、虐待の被害者となる率が高いこと、刑務所に収容される率が高いこと、学校における成功と齟齬をきたすような態度や習癖をもちやすいことなどである。

 どうでしょう。「学校生活や社会生活への不適応」の例としてあげられているものは、相当に深刻な問題を内包しているものばかりです。

 日本の男子の問題は、筆者自身多少なりとも感じていたことです。以前、小学生を例にあげ、「男子は女子よりも精神年齢の発達で後れを取り、国語の読解力に差が生じやすいほか、何かにつけて女子のほうが活動的であり、喧嘩をしても男子は女子にかなわないことが多い」といったようなことを書いたことがあります。また、中学や高校においても、「男子よりも女子のほうがまじめに勉強するので優秀な生徒が多くなってきていること、最近では大学入試においても女子のほうが優位に立ちつつあることなどについても書いた記憶があります。

 ですが、欧米諸国の顕著な傾向としては、学力以外の生活面における乱れや、人間としての劣化とさえ言えるほどの逸脱が国を問わず進みつつあるという点です。どの国であれ、このような重大な問題を放置するわけにはいきません。男子の補償教育の必要が叫ばれ、各国で対策が講じられているといいます。

 かつては、ジェンダーに関わる問題の大半は「男女の不平等」であり、教育を受ける際に女子が不利をかこつことが多いことや、就職において女子には様々な制限や差別があったことでした。しかしながら、1990年代の半ばごろからジェンダーに関わる問題は、女子が不平等な扱いを受ける問題ではなく(無論、今も完全に解消されたわけではありません)、男子の学力低下、劣化、逸脱の問題へと変わってきています。問題にすべきは女子ではなく男子になったのです。

 先ほど引用した本の著者は、諸外国の実状などを調べたうえで、この男子の問題を二つのタイプに分けて説明しておられました(以下の説明は著者の書かれている内容を簡略にしたものです)。

 一つは、「厄介者としての男子」という見かたです。学業不振や粗暴なふるまいなどの問題に対し、責任を男子自身に求め、このような男子を排除されて然るべき「厄介者」とみなします。

 こうした見かたをしている国の例としてイギリスがあげられていました。これは、「自由主義の原則に基づく社会においては、競争的環境で成功するための機会は万人に与えられているのだから、そうした機会を活かせるかどうかは個人に委ねられた問題であり、失敗したとすればその責任はその人自身に帰するべきである」という考えかたに立ちます。いわゆる新自由主義に立脚した考えかたです。学業面で苦労し、辛い思いにさらされている男子は、手を差しのべるべき“かわいそうな”人間ではなく、自分自身で這い上がる姿勢の欠落した‟落ちこぼれ”であるとみなされるわけです。

 こうした見かたが主流になるにつれ、かつて少々の逸脱や反学校的な態度をとる生徒に対する寛容な見かたが影を潜め、真面目に学校で学んでいる他の生徒の迷惑や邪魔になるとして、非難する風潮が強くなっているといいます。

 もう一つは、「被害者」としての男子という見かたです。男子が直面している様々な問題は、男子に不利な状況からもたらされたもので、彼らを救い出すべき対象とみなします。前述のような、男子の粗暴なふるまいや反学校的態度を全く違った観点でとらえ、「男らしさの危機」といったような、被害者的なとらえかたをします。こうした見かたをする国は多いようですが、先ほどの著者は「それが最も顕著にみられるのがオーストラリアである」とし、オーストラリア政府の報告書の内容を紹介しておられました。

 それによると、「シングルマザーの家庭や、約8割を占めている初等教育学校では、男子はモデルとなる同性の教師から適切なふるまいや人間関係のありかたを学ぶ機会を奪われている」とされています。また、「初等教育や中等教育の現場では、受動的で言語を重視した女子向きの学習スタイルがとられる傾向がある」「かつては肉体労働や熟練労働への就業によって男性は女性よりも高い割合でフルタイムの雇用にありついていたが、近年はそうした職業が衰退している」云々。

 こうした問題が進行しているにもかかわらず、女子を支援するためのプログラムの実行に注力するあまり、男子の教育ニーズを明らかにしてそれを満たそうという試みがほとんどなされていない。――オーストラリア政府の報告書には、そのような見解が示されていました。

 どうでしょう。この二つはある意味で正反対の「加害者」と「被害者」という、相反する視点でとらえてあるものですが、いずれも男子に関わる問題を看過できない由々しいものという認識に立っています。果たしてどちらが現実に向き合ったものなのか、専門家でない筆者には語る知識も資格もありません。先ほどの本を熟読したうえで、子どもをもつ保護者に有益な情報が得られたらまた話題としてとりあげてみようと思います。

 なお、日本における男子の問題については、年が明けたらいずれ詳しい情報をお届けしようと思います。正月明けのブログ再開は、1月10日(火)を予定しています。よろしくお願いいたします。

 みなさん、よい年をお迎えください。


カテゴリー: 子どもの発達, 子育てについて

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