2009 年 2 月 のアーカイブ

ピグマリオン効果とは

2009 年 2 月 18 日 水曜日

 前回は、おかあさんがわが子をほめなくなったことと、その理由について書きました。また、「子どもががんばったらほめてやる」のではなく、「子どものがんばりを引き出すためにほめる」という発想の必要性について書きました。今回はそれに引き続き、「ほめられること」や「期待されること」が子どもの心理にどのような影響を及ぼすかについて考えてみたいと思います。

 1960年代後半のことです。アメリカの心理学者ローゼンサールとジェイコブソンは、小学校の先生と児童を対象にある実験をしました。それは、次のようなものでした。

 二人は、「ハーバード式学習能力予測検査」とでたらめな名前をつけ、子どもたちに「知能検査」を実施しました。その後、その検査の結果とは関係なく無作為に抽出した子どものリストを先生に手渡しました。なお、先生には「知的に優秀な児童をリストアップした」とだけ告げました。それから約半年、子どもたちの指導にあたってもらいました。

 さて6ヶ月後、実験の対象者の子どもたちに、再び「知能検査」を行いました。“この子たちは伸びる可能性が高い集団だ”と、先生に思い込ませた結果はどうだったでしょうか。先生が“優秀な集団である”と思い込んでいた子どもたちのIQ平均値は、実験に参加していなかった子どもたちの平均値と比べ、小学1年生で15点以上、小学2年生で約10点伸びていたそうです。ただし、3年生以上では顕著な違いは見られませんでした。

 ローゼンサールたちは、この実験のように先生からの期待が差し向けられたことによるIQの向上効果を「ピグマリオン効果」と名づけました。

 ピグマリオンとは、ギリシャ神話に出てくる国王の名前です。ピグマリオンは彫刻の名手でもあり、あるとき女性の彫像をつくりました。それがあまりにも美しかったため、「嗚呼、これが人間の女性だったら」と願いながら、彫像に恋いこがれて暮らしたそうです。すると、その彫像はほんとうに人間に変わり、晴れてピグマリオンはその女性と結婚することができたという話です。

 ローゼンサールたちは、このピグマリオンの話と、自分たちの実験の結果とに共通する点、すなわち、「こうあってほしい」ということを強く念じたり、期待を差し向けたりすることによって生じる効果に着目したものと思われます。最近では、この「ピグマリオン効果」という言葉が、教育界をはじめいろいろな方面で使われるようになったので、ご存知の方も多いことでしょう。

 さて、この実験結果からどんなことがわかるでしょうか。小学校低学年の子どもは、先生が差し出す期待の影響を強く受けるのだということは確かです。ただし、高学年になるとその効果が特に見られなかったのはなぜでしょうか。高学年になると、先生による期待よりも子ども自身が「自分に対して期待すること」のほうが知的能力の開発に大きな影響を及ぼすのだそうです。「自分はできるんだ」という自信や自己期待が知的な成長に強く関与するというのです。

 ※今回の記事は、筑波大学心理学系教授の櫻井茂男先生の著作を参考に作成しました。

 

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カテゴリー: 子どもの発達

おかあさんがわが子をほめないのはなぜ?

2009 年 2 月 16 日 月曜日

 以前、子どもをやる気にする秘訣、子どもを勉強好きにする方法として、「わが子をほめる」ということをご提案しました。ただし、「子どもをほめよ」ということは、ことさら取り上げるまでもなく、多くの子育て本に書かれています。敢えてそれを書いたのには理由があります。おそらく、子育て本にそういうことがしきりに書かれているのも同じ理由からだと思います。

 さて、その理由とは何でしょうか。それは、「子どもをほめるおかあさんが少なくなっている」ということです。

 では、なぜおかあさんはわが子をほめなくなったのでしょうか。それは、子育ての負担がおかあさん一人に集中しているからではないでしょうか。大がかりな調査によると、わが国の家庭では、子どもの躾・教育の80数%はおかあさんが引き受けておられます。これは、大変な心労やストレスを伴うことであり、その結果、おかあさんはわが子をほめようにも、心のゆとりを失ってしまっているのです。

 もう一つ、戦後の豊かな時代に育ったおかあさん方は総じて高学歴です。わが子に対する要求も自然と高くなります。自分が子どものころにできたこと(筆者自身そうですが、親になると自分の子ども時代を美化する傾向があります)ができないわが子を見て、ともすれば辛口な評価を下しがちです。「どうしてこんなこともできないの」という不満が、ついつい口をついて出てしまい、「ほめてやろう」という発想がどこかへ消え去ってしまうようです。

 「ほめる」という行為は、本来「がんばったら」という条件つきのものではありません。「がんばらせるため」にほめるのです。がんばっている子どもは、成績的にもすでに報われています。「がんばりを引き出すために、ほめてやらねば」という発想こそ必要なのです。ところが、多くの家庭では「ほめてやろうにも、子どもががんばってくれない」となりがちです。

 かく言う筆者の家庭も例外ではありませんでした。ことあるごとに愚息を叱りとばす妻を見て、「どうしたものか」と密かにため息をついたことは一度や二度ではありませんでした。

 そんなあるとき、手にしていた本の記述がふと目に留まりました。それを読んで、筆者は「これだ!」と膝を打つ思いに駆られたものです。その本には、「おかあさんがわが子をほめないのは、おかあさんをほめてくれる人がいないからだ」というようなことが書かれていました。二世代家庭が標準化したわが国の家庭では、子育てに悪戦苦闘するおかあさんを慰労してくれる存在がいません。旦那さんは仕事でくたびれて帰り、相談相手にすらなりません。やり場のないおかあさんは、つい子どもに辛くあたってしまうのです。

 「そうだ。毎日子どもの世話をしている妻の苦労に報いてやらなければ。今日は家に帰ったら、真っ先にご苦労さんの声かけをし、ほめてやろう」――そう思って家路を急ぎました。

 ところが、不測の事態によって、筆者のこの思いは直前にスッと消え去りました。「いいかげんにしなさい!何回言ったらわかるの!!」と、愚息に向けられた金切り声が玄関のドアを突き抜けて耳に飛び込んできたのです。「こんな妻をほめることができるのは、神様か仏様、聖人君子ぐらいのものだ」と、呆然とした思いで立ちすくんだことを思い出します。

 しかしながら、後で思い直しました。「だからこそ、子育ての苦労のさなかにいるおかあさんにはほめる人が必要なのだ」と。夜家に帰って、束の間子どもの相手をしてやるだけの父親は、まさにいいところ取りの立場です。ちょっと話し相手、遊び相手になっているうちに、子どもは寝てしまうのですから。一方、おかあさんはそうはいきません。朝から晩まで子どもと生活を共にしなければならない立場に置かれています。あらゆる瞬間に、躾と教育に必要な判断や行動が求められているのです。明らかに、おかあさんのほうが圧倒的に大変なのです(共働きの家庭ではなおさらであろうと思います)。 

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カテゴリー: アドバイス, 子育てについて

80歳にしてわが子と心を通じ合えた女性の話

2009 年 2 月 13 日 金曜日

 母親の愛情は、その深さゆえにわが子にうまく伝えることができず、悩みを伴うことがあります。今回も、引き続きそのことを話題に取り上げてみます。今回は、カウンセリング系の書物(著者は、チャック・スペザーノ博士)に書かれていたことを引用しご紹介します。

 イギリスで行われた博士のワークショップでのことです。80歳前後の女性が、思い詰めた表情をして発言しました。その女性は、同じ年格好の友人と一緒に来ているようでした。老いたその女性は、娘とうまくいっておらず、深い孤独感に苛まれていました。子ども時代においても、嫁いだ後の人生においても幸福感に満たされたことがなく、何か自分が生きていくうえで大切なものを見失ってきたようで、いたたまれない思いに襲われていたのです。

 私は、こう彼女に尋ねました。
「その感情が始まったのはいくつのころでしたか?」
「12歳のときです」
私はまた尋ねました。
「何が起きたから、その感情がわいてきたのだと思いますか?」
「母が私のことを大声でどなって、叱りつけたんです」
私は言いました。
「その結果として、あなたは自分自身についてどんなことを感じるようになったのでしょうか?」
すると、彼女は泣き始め、こう言いました。
「自分は愛される人間ではないと感じ始めました」
私は彼女に言いました。
「このことが原因で、自分の人生で孤独を感じるようになったのではないですか?」
「はい、そのとおりです」
そこでまた私は彼女に、
「これまで誰かに対し、あるいは何かに対し、怒鳴りつけたことはありませんでしたか」
と、尋ねました。
「あります」
「怒鳴りつけたとき、何を感じていたのですか?」
「腹を立てたのは、その人たちのことを心配していたからです」
「あなたが誰かを怒鳴りつけたり、叱ったりするとき、その人のことを愛していないという意味なのでしょうか?」
すると、彼女は言いました。
「いいえ、そうではなく、娘のことを愛していたからこそ、心配だったのです」
そこで私はこう尋ねました。
「おかあさんがあのように振る舞ったのは、どのように感じていたからでしょうか?」
すると、彼女はこう答えました。
「母もまた怖かったのでしょう。私がちょうど思春期に達し、私とどのようにコミュニケーションをとったらいいのか、自分の不安をどのように表したらいいかわからず、怖かったのでしょう」
「あなたを怒鳴りつけたとき、おかあさんはあなたがかわいくないと思ったからでしょうか? それとも、あなたに何かひどいことが起きるのではないかとただ怖れていたのだと思いますか?」
すると彼女は、
「ただ怖れていたのだと、・・・・・・」
と言って、号泣し始めたのでした。
「母は私を愛してくれていたのですね!」

「母は私を愛していてくれた」と、涙の合間に彼女が見せる表情は輝いていました。そして、そんな彼女を抱きしめる同年輩の友人もまた、彼女とともに心の底から泣いていたのでした。

 その後の休憩時間に見た光景は、私の人生で最も心に残るものとなりました。二人の白髪の夫人が廊下で互いに抱き合い、喜びの涙を流しながら、私の前を歩いていました。後で聞いたことですが、その婦人は娘さんと和解ができ、親友ともまったく新しいレベルのコミュニケーションと友情が始まったそうです。68年も経って、ずっと自分は愛されていないと思っていた誤解がやっと解け、この婦人は自分が愛されていると感じることができ、再び生き返ることができたのでした。

 親は、わが子に限りない愛情をもっています。しかし、それゆえに感情を抑えきれず、怒鳴ってしまったり、心とは逆のことを言ってしまったりしがちです。「子どもに善くあってほしい」という願いから出たはずの言葉が、逆に子どもの心を深く傷つけてしまうこともあります。子どもが思うに任せないとき、子どもへの気持ちが強いエネルギーとなって噴出し、感情のあらわな言葉と化した経験は誰もがもつものです。それを人知れず後悔し、思い悩むおかあさんは少なくありません。

 親から発せられる厳しい言葉が、愛情からくるものであると理解するには、小学生の子どもはまだまだ幼すぎるのではないでしょうか。「どう言ったら、わが子はわかってくれるか。親の気持ちを理解してくれるか」それをよく考えながら子どもに接してやりたいものですね。そういう親の思いやりは、子どもが親になったときに、確実に受け継がれていくことでしょう。今回の話が、母親としての苦しみを少しでも感じている人の参考になれば幸いです。

※転載した文章は、紙面の都合で若干調整しています。

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カテゴリー: アドバイス, 子どもの発達, 子育てについて, 家庭での教育

園長先生の涙

2009 年 2 月 10 日 火曜日

 前回は、母親に反発する思春期の女の子を描いた児童文学作品の内容をご紹介しました。筆者は、この物語をもとに劇のシナリオを書いたことがあります。それがもとで、ちょっとしてできごとが起こりました。

 そのできごとが起こるまでの経緯を少しご説明します。何年か前、筆者はある国際的な教育運動に興味をもち、ファシリテーターの資格を得ようと思い立ちました。ファシリテーターという言葉を耳にされた人はおられませんか? 「講師」と解釈していただいてよいのですが、本来は「わかりやすくする人」という意味です。

 その教育運動のわが国における中心人物であり、マスターファシリテーターを務めていたのは東京の大学の先生でした(現在は、NPO法人化され、より組織化されています)。そこで、その先生が主催するワークショップに参加しました。これからご紹介する話は、そのワークショップでのできことです。ワークショップとは、特定の事柄に興味をもった人たちが、積極的に発言をしたり、行動したりしながら学びの目的を達成する、比較的少人数の集まりのことを言います。そのワークショップでも、参加者には自己表現をする機会が様々な形で与えられました。

 さて、次々に与えられるテーマを無我夢中でこなしているうちに、大詰めが近づいてきました。そして、まとめとしていくつかの班に分かれて劇を演じる課題が発表されました。テーマは例示されたものから選びます。筆者の所属する班では、「家族愛・家族の絆」をテーマに選びました。テーマが決まった瞬間、筆者にはある考えが閃きました。「そうだ、『銀の馬車』のストーリーを枕にして、劇をしたらどうか」と。

 そこで、僭越ながらシナリオを書く役を引き受け、翌日の本番に間に合わせようと一気に書き上げました。書き終えたら、夜中になっていました。なお、班のメンバーは、筆者以外は全員女性で、学校の先生、幼稚園の園長先生、ケースワーカー、主婦など、様々な地方から参加された、多様な立場の方々でした。

 そのなかに、姉妹の母親役にピッタリの雰囲気をもった女性がおられました。幼稚園の園長先生です。筆者の思惑どおり、全員一致でその人に決まりました。ケースワーカーの女性は、他が後込みしそうなおばあさん役を自ら引き受けてくださいました。無責任な父親役はというと、男性は筆者一人でしたので、自発的に(仕方なく?)引き受けました。こうして配役が決まると、全員が残された短い時間を意識し練習に没頭しました。

 ところが、思わぬ事態が生じました。母親役の女性が涙をボロボロ流し、セリフが声にならなくなったのです。心配しましたが、理由は本人が語ってくださいました。「この話の母親は、私そのものです。私には娘が二人おりますが、上の娘とはだんだん距離を感じるようになり、嫁いだ今もぎくしゃくした関係が続いています。きっと、『年上なんだからしっかりして』という思いが強すぎたんです。この物語の母親と同じです」――目頭をハンカチで拭いながら、そうおっしゃいました。

 わが子への愛情。それを伝えるのは、簡単そうで実は難しいことです。「うちの子は、わかってくれている」と思っても、常に言葉や態度で伝える必要があるのです。その努力をしているつもりの人でさえ、わが子と十分には分かり合えないもどかしさを感じることが多いものです。いったん離れた心と心をつなぎ合わせるには、時間も、互いの努力も、タイミングも必要で、実現するのは容易なことではありません。そういえば、ワークショップの運営に関わる人からも、その種の悩みをもつ人の困難さを教えられたことがあります。

 さて、本番では何もなかったかのように、全員で張り切って劇を演じました。演技者以外は、全員が観客であり、評価者です。みなさんからよい評価とアドバイスをいただいた瞬間、ホッと気が抜け、どっと疲労感が押し寄せてきたことを思い出します。

 あれから随分日がたちました。幼稚園の園長先生は、娘さんとの間に生じていた小さな亀裂を、うまく修復されたでしょうか。ワークショップで出会った人たちの、心の美しさが思い出されます。

 ワークショップでの体験は、筆者の人生におけるささやかな宝物となりました。そして、もう一つ、宝物に“おまけ”がありました。広島に帰ってから何日かたった頃、青森からリンゴの箱が届いたのです。「青森に知り合いはいないが」と、不審に思いながら差出人の名前を確認すると、何と劇で妹役を演じてくださった方から届けられたものでした。箱のなかには、「楽しかったです。ありがとう」のメッセージが添えられていました。
 

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児童文学が描く母親の愛

2009 年 2 月 9 日 月曜日

 随分前の話になりますが、6年生の女子クラスを担当していたときのことです。「これは思春期間近の女の子によさそうだな」と思って、子どもたちに紹介した本がありました。「銀の馬車」という書名のその本は、母親に反発する女の子が、やがて自分に向けられた母親の深い愛情に気づく物語です。

 子ども時代にご経験ありませんか?「あなたはお姉さんでしょ。しっかりしてくれないと困るわ」「弟の面倒をもっとみてくれなきゃ」「私の気持ちを、どうしてわかってくれないの?」など、説教じみたことを言われるのが疎ましく、母親に反発心を覚えたことは?

 2~3週間後、ある女の子が報告してくれました。「先生、この間教えてくれた本、あれで泣いて、泣いて・・・・・・」 筆者はすっかりうれしくなり、「えっ、もう読んだの?あの話、感動するよね」と答えました。すると、すかさず「ううん、違うよ。読んだのはおかあさん」と切り返されました。 なんと、感動して泣いたのはおかあさんでした。

 当時は、女の子の成長という視点からのみ、その本を読んでいたような気がします。しかし、ストレスを溜めながら子育てをしている妻を見、また、自分自身も子育て上の様々な悩みを経験してきた今は、親の視点からもこの本のすばらしさを理解しているように思います。この本を読んで泣けてくるのは、子どもではなくむしろおかあさんなのです。

 本の内容をもう少しご説明しましょう。「銀の馬車」は、アメリカの児童文学作品で、両親の離婚という困難を乗り越えていく少女の物語です。離婚後、娘二人の面倒は母親がみることになりました。そこで、母親は夏休みの間に正式な職を得るための資格をとろうと、学校に通うことを決心します。その間、姉妹は山の中で一人暮らしをする父方の祖母に預けられることになります。この祖母との暮らしを通じて、姉妹が大きく成長するというのが、この話のおおよその内容です。

 主人公の女の子は、自分にばかり辛くあたり、ヒステリックに叱ってくる母親を恨んでいました。対照的に、妹は天真爛漫で誰にもかわいがられます。「どうして私ばかり・・・・・・」と、母親が恨めしく、一悶着あるたびに「ああ、何でおとうさんは私を引き取ってくれなかったのかしら。おとうさんなら優しいし、仲良く暮らせるのに」と、おとうさんと二人で暮らせる日が訪れることを夢見るのでした。

 そんな女の子が、妹とともに祖母の家で暮らす体験を通じて、少しずつ母親の自分に対する深い愛情に気づき始めます。物わかりがよくて優しい父親が、本当は愛してくれていたわけではなく、また、自分本位で責任感に欠ける人間であることにも気づいていきます。そうした父親の性格が離婚の原因であり、母親は「自分が子どもたちを育てなければ」という強い責任感から、余裕を失っていたのです。自分に厳しかったのも、「上の子はしっかりしてくれているから、何とかやっていけるだろう」という、信頼の気持ちがあったからでした。

 この作品で重要な脇役を担っているのは、おばあさんです。離婚後間もないというのに、新しい家族を連れてくる無神経な息子(姉妹の父親)に対して、静かな、抑制された怒りを向けるシーンが印象に残ります。また、経済的な自立を必死になって模索する母親や、父親を失った孫たちに深い愛情を注ぐこの人物の存在で、暗くなりがちなストーリーに希望をもたせる効果が生まれているように思います。

 児童文学は、事実よりも心に響くことがあります。また、どこにでもありそうなことを、実にリアルに描いてくれます。ご紹介した作品も、その一つです。この作品を知っていたことがもとで、あるとき、思わぬドラマが起こりました。次回は、そのことについて書いてみます。

「銀の馬車」 キャロル・S・アドラー作 金の星社(フォア文庫からも出版)

 

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