2009 年 4 月 のアーカイブ

誰にも自分なりの正義がある

2009 年 4 月 6 日 月曜日

 ある都市で行われたワークショップに参加したとき、印象に残ったできごとがあります。今回はそれについて書いてみます。ワークショップでは、様々なテーマに基づいて周囲の人たちと意見交換をしたり、共同作業をしたりするのですが、ただ話を聞くだけの催しと違い、心に刻まれるものが多いのがワークショップのよいところだと思います。

 さて、その日のファシリテーター(ワークショップの進行役)のお話のなかで、心の奥深くまで染み渡った言葉がありました。それは、次のような言葉です。

  「あなたに対して、どんなに理不尽で受け入れがたいことを言ってくる人がいても、それだけで腹を立ててはいけない。なぜなら、その人はその人の正義に立ってものを言っているのだから。その人と正面を向いて、穏やかに話をすることが大切です。きっと、お互いの誤解が解けるでしょう。そして、以前に増して親密な関係が築けるはずです」

 みなさんは、この言葉から何か気づきを得られたでしょうか。自分の配偶者や子ども、友人、職場の同僚などとの関係を思い起こしてみてください。

 筆者は、当時妻との間でときどき言い争いのようなことをしていました。原因は他愛のないことですが、何かと感情にまかせて手厳しい言い方をしてくるのが疎ましく、適当にあしらったために却って妻を怒らせてしまったのです。それを思い出し、「そうだ、自分の立場でばかり考えていた。妻の側に立ってみれば、腹立ちの原因はちゃんとあったのだろう」と、自らについて反省したのでした。

 するとそのとき、一人の女性が手を挙げました。そして発言を許されると、こんなことを言い始めました。

「わたしの近くにいる人で、とても困った人がいます。先ほどの話ですが、その人と向き合おうにも、私と正面切って心のなかを打ち明けることを避けるんです。これではどうしようもありません。いつも私との話し合いの場から逃げるんです」
「それは、あなたの職場の同僚ですか」
「いいえ、ちがいます」
「では、友人ですか」
「いいえ、違います」

 筆者は、直感で「この人の旦那さんのことだな」と思いました(なにしろ、身に覚えがありますからね)。やがて、本人が自分の夫のことであるということを告白しました。それからは、ワークショップの参加者が次々に思ったこと感じたことをもとにアドバイスを送り、場は大変な盛り上がりを呈しました。

 その女性は、夫婦での話し合いに応じようとしない夫に対して、強い憤りと不満を覚えているようでした。自分の部屋に逃げ込んだまま出てこない夫に対して、その女性は、部屋のドアの前に立って「まだ話し合いは終わっていない!」と、大きな声をあげたそうです。

 教育に関するテーマを掲げたワークショップで、こういう問題について考えることになるとは思っておらず、当惑しました。しかし、よく考えてみると、程度の違いこそあれ、みんな同様の問題と背中合わせに生きているのです。

 しばらくして、愚息とサイクリングに行ったとき、突然子どもが腹を立てるできごとがありました。「帰るぞ」と言っただけなのに、どうしたことでしょう。いつもなら、「何だ」とこちらも強く出るところでしたが、例のワークショップでの言葉を思い出しました。そこで、「どうしたんだい?」と、なるべく穏やかな声で話しかけてみました。すると、「おとうさんは、自分でばかりコースや帰る時間を決めるじゃないか。あれって、頭に来るんだ」と言うではありませんか。「そうか、原因は自分だったのか」と深く反省したものでした。

 また、妻との小さないざこざは、お互いの気持ちを受け止め合う会話を通じて、劇的に(?)減ったのは言うまでもありません。

 誰でも自分の正義に基づいて生きている。そのことを胸に人と接したなら、新たな家族関係や人間関係が築けるかもしれません。 

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カテゴリー: 子育てについて

「自学自習」は、勉強好きになることから

2009 年 4 月 3 日 金曜日

 このところ、自学自習に関する話を書いてきました。「自学自習」というと、話が堅苦しくなりがちで、1~2回でやめようかと思ったのですが、当社の学習指導の根幹をなす理念でもあり、何回も書くことになってしまいました。今回はその最後とさせていただきます。

 専門領域で名を成している学者の本を読んでいると、そういう人のほとんどが一生を学びの場としておられることに改めて気づかされます。学者だから当たり前ですが、一生を研究に捧げる仕事に就くようになるには、そうなるだけの原因があったと思います。筆者は学生時代、教育心理学・教育理論を専攻していましたが、それがもとで今の職に就いており、また、学習塾内での仕事上の必要性から、今でも教育心理学や教育社会学、脳科学などの書物を好んで読んでいます。

 そうした書物には、ときおり著者の子ども時代のエピソードが紹介されていることがあります。それを読んでいると、学者になった人のほとんどが子どものころから勉強好きであり、「親に勉強しろと叱られたことがない」というようなことを書いていることに気づきました。

 たとえば、大阪大学大学院教授で教育社会学者の志水宏吉先生は、西宮の材木商の家に生まれておられます。両親ともに、中学以上の学歴はありません。しかし、父親が文化的なものにふれる体験をするよう働きかけてくれたこと、母親に本の読み聞かせをしてもらったことなどを通じて、いわゆる「秀才」で「勉強好き」な少年に成長したそうです。やがて志水先生は東京大学へ進学して教育社会学を学び、東京大学の大学院教授を経て、現在に至っておられます。

 その志水先生曰く。「私は、叱らずに勉強好きにしてくれた両親に感謝している」――この言葉は、わが子に学力面での大成を願っておられるおとうさんおかあさんにとって、大いに参考になるでしょう。とことん学問を追究したいという情熱は、叱られて勉強をしたのでは湧いてきません。わが子が学者になるかどうかはともかく、向上を求めて生涯学び続ける人間にしたければ、「勉強しなさい」と叱ってはダメだということです。叱らずに、いかにしてわが子を「勉強好き」にするか。とても難しい話ですが、是非若いおとうさんおかあさんには挑戦していただきたいと思います。

 「叱るなと言うが、勉強しない子どもを、叱る以外にどうやって勉強に向かわせられるのか」「叱らずに勉強好きにするなんてできそうにない」とおっしゃる方もおありでしょう。しかし、親自身が自分の身に照らして考えてみればわかることですが、「叱られてやる勉強」「命令されて仕方なくやる勉強」と、「知りたいと思ってやる勉強」「自分自身のためにやる勉強」とでは、子どもの心に大きな違いが生じます。叱られたり命令されたりすると、子どもの心に歪んだものが残るように思います。やがてそれがマグマとなって噴火するよう事態になってしまうとも限りません。

 叱らずに子どもを勉強好きにする。それは、なかなかの難題ですが、是非知恵を絞って実現に向けて挑戦していただきたいと思います。志水先生がそうであったように、親がそういうことに一生懸命に取り組んだことは、必ず子どもに伝わるものです。子どもはやがて大人になっていきますが、親が一生懸命になって働きかけてくれたことは、ずっと忘れないものです。

 

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カテゴリー: アドバイス, 子育てについて, 家庭での教育, 家庭学習研究社の理念

「自学自習」の価値は、受験後に見えてくる

2009 年 4 月 1 日 水曜日

 前回は、自学自習を高い次元で実現している子どもの様子をご紹介しました。ただし、ほとんどの子どもは、自学自習の大切さやよさを実感するまでには至りません。毎日の家庭勉強や塾での学習を通じて、少しずつ地道に自分で学ぶ姿勢を築いていきながら、完成途上の状態で入試を迎えることになります。しかし、そうやって築いていった自学自習の芽が、やがて中学進学後に大きく育つのです。

 受験での志望校合格を全員に確約することは不可能です。ですが、自学自習の姿勢なら、子どもたち一人ひとりの努力に応じて応分な成果を保障できます。そして、それこそが子どもたちにとって、先々大きく学力を伸ばしていくうえでいちばんの支えになるのです。私立の中・高一貫校に進学すると、学習の流れははやく、宿題も多量に出されます。しかも授業のレベルは高く、自学自習の姿勢が欠落したお子さんは、大変な苦労を強いられます。だからこそ、自学自習の姿勢を培いながら合格を得ることをめざすべきだと私たちは考えています。

 ただし、いざ受験勉強が始まると、「自学自習云々より、得点力をつけて合格することが先決」といった考えにとらわれがちです。あるとき、わが子の成績不振で悩むおかあさんの電話相談を受けていたら、あまりにも目先のテスト成績ばかり気にされるので、少したしなめるようなことを言ってしまいました。すると、「でも受からなきゃ、何も始まらないじゃないですか!」と、大声で反論されました。

 おかあさんのお気持ちは十分わかるのですが、おかあさんに毎日成績のことばかり言われ、叱咤激励されるお子さんの気持ちも考えてみるべきでしょう。おそらくは、「一日も早く勉強から解放されたい」という思いで心は張り裂けそうになっているのではないでしょうか。入試が終わったあとの、そのお子さんの行く末が心配になってしまいます。

 経験的に言えることですが、おかあさんが成績至上主義・結果至上主義で子どもに接していると、お子さんは家での猛勉強とは裏腹に、学校や塾では、息抜きや憂さ晴らしをしているか抜け殻のようにぼんやりとしているかのどちらかになりがちです。こうなると、中学受験での合格どころではありません。残念なことですが、こうしたことは多くの中学受験生の家庭で繰り返されているのではないかと思います。

 受験が近づいてくると、親が成績を気にする以上に、子どものほうが成績に敏感になっています。そんなときに、親が成績のことであれこれわが子に指図をして振り回すことは、何のプラスにもなりません。親はどんなときにも決して目先のことにとらわれてはならないのです。「大切なのは、自分を見失わず、自分のできる精一杯を尽くすことなのだ」というスタンスに立ち、温かく余裕をもってわが子に接する親であっていただきたいと存じます。

 これは、昔読んだ本に書いてあったことです。息子さんの受験が近づいたある日、おとうさんは次のようなことを語られたそうです。「もしおまえが試験に落っこちたら、おまえが前からほしがっていた・・・・・・を買ってやろう」 「受かったら」でもなく、「落っこちても」でもなく、「落っこちたら」という言葉のなかに、親としての限りない愛情が込められている話であろうと思います。息子さんのにっこりした表情が目に浮かぶようです。きっとおとうさんのその言葉で、プレッシャーから解放されたのではないでしょうか。

 いつの間にか、話が本題から外れてしまったようです。これから中学入試までには、それこそ山あり谷ありで、順風満帆というわけにはいかないかもしれません。子どもの精一杯のがんばりを応援しつつ、もっと先の学力形成の流れを視野に入れ、大局的見地に立って応援をしてやりたいものですね。
 

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カテゴリー: アドバイス, 中学受験, 子育てについて, 家庭での教育