2010 年 2 月 のアーカイブ

2010年の中学入試を終えて

2010 年 2 月 10 日 水曜日

 正月が開けると、弊社のどの校舎にも張りつめた緊張感が漂ってきます。そう、いよいよ6年生の子どもたちにとって、受験生活の集大成となる中学入試がやってくるからです。

 ここからは、新しいことに取り組んだり、難問に挑戦したりするのではなく、心身のコンディション調整に専念するのがいちばんです。どの校舎でも、子どもたちが過度の緊張に追い込まれたりしないよう万全の配慮をしつつ入試本番に臨みます。

 幸い、昨年猛威を振るった新型インフルエンザも峠を越し、入試が混乱することは避けられました。どの校舎の指導担当者も、「子どもたちが、本番の雰囲気に負けて失敗をしたりすることがありませんように」と祈りながら、入試日には応援に駆けつけました。

 それにしても、子どもたちの逞しさには感心させられます。入試会場に到着直後は頬を引きつらせているお子さんもいますが、仲間と話をしたり、指導担当者の激励を受けたりしていると、たちまちいつもの笑顔を取り戻します。いつものことながら、余計な心配をするのはいつも大人のほうです。

 さて、今年の広島の中学入試というと、私学各校の志願者の減少が話題にされ、新聞紙上でも取り上げられました。底をつくことのない長い不況の影響を、誰もが思い浮かべたのは間違いありません。国・公立の6カ年一貫校が志願者を減らしていないことからも、私学の志願者減の要因は不況にあるのは間違いないように思います。

 こうした状況は、学習塾の側にすると辛いものです。私学進学熱がトーンダウンすることは、たちまち経営上の問題の引き金になるからです。また、私学への受験を考えていたものの、不況による収入減などの理由であきらめる家庭もかなりあると聞いています。何とかして、日本の経済に活気を取り戻してほしいと願うのは、日本国民の総意であろうと思います。

 ただし、私学の志願者減の影響は、ご家庭にとって悪いこととは言えない面もあるように思います。私学とはそもそもどういうものか、私学にわが子を通わせる価値はどこにあるのか、それを考える契機にしてはどうでしょうか。もしもその点において、私学を選択する明確な理由が見出せたなら、志願者の減少は歓迎すべき事態です。なぜなら、志願者は少ない方が合格を巡る競争も緩和されるし、受験勉強の負担軽減というメリットも生まれてきます。そもそも、「大学進学に有利だから」という観点だけで私学に人が殺到する現象は、望ましいことではありません。

 この問題については、このブログにおいて改めて書いてみるつもりです。「私学のよさを、改めて考えてみたい」と思われるかたにとって、少しでも参考になる情報をお届けできたらと考えています。

 ところで、今年の家庭学習研究社の入試結果について。すでにHPやチラシ、新聞の記事下広告などで結果をお知らせしていますから、ご存知のことと思います。結果については、今年は特にお伝えしたり、塾として強調したりするようなできごとはありませんでした。敢えて言えば、今年の6年生女子会員が例年よりも少なく、それが一部の中学校の合格実績に若干影響したかもしれません。ですが、全体としてはまずまずの結果だったように思います。

 また、ここ2、3年の傾向として、「地元志向」の強まりがあげられるかもしれません。特に女子受験生に見られることですが、弊社の東広島校では地元の中・高一貫校を志望するお子さんが増えています。また、西側では五日市校のなぎさ志望者が確実に増えつつあります。これらの中学校には、以前よりも優秀なお子さんが進学するようになりました。男子の場合、広島の伝統的私学を志望する傾向は変わりません。

 進学塾にとって、毎年の合格実績は生命線とも言える重要なものです。学習塾の指導担当者たるもの、入試の結果に興味のない者など一人もいません。しかしながら、子どもたちは塾の合格実績のために学んでいるわけではありません。受験生一人ひとりの進学目標が達成されたかどうか。それこそが重要なことです。ですから、「何人受かったか」も大切なことですが、「受かるべきお子さんが受かっているかどうか」「一人ひとりに望ましい進路が確保されたかどうか」という視点を失ってはいけないということを、私たちは肝に銘じています。

 合格者数を増やすことと、一人ひとりの進路保障を大切にすること。両者は表面的には同じように受け止められるかもしれません。しかしながら、この二つは似て非なるものです。子どもたちの望ましい進路確保、子どもたちの成長と将来のための受験なのです。そういった気持ちを忘れ、学習塾の合格者を増やすことばかり考えていると、いつの間にか子ども不在の学習指導に陥ってしまうおそれがあるのではないでしょうか。

 先日、ある校舎の責任者に「今年の入試結果はよかったですね」と伝えたところ、「でも、受かるはずの子が受かっていない状況もありますから喜べません」という返事がかえってきました。この気持ちが大切なのだと思います。また、ある校舎を所用で訪ねたとき「○○君、補欠が回ってくるといいね」「○○さん体調がよくなかったみたいだけど、試験は大丈夫だったかな?」など、子どもたちの受験や進路に関する会話が聞こえてきました。手前味噌になりますが、指導担当者がそういうことを気にかける学習塾であることを、筆者はうれしく思いました。

 さて、もうすぐ2010年度の講座が開講します(5・6年部2月13日、4年部2月27日)。私たちにとっては、毎年やってくるしきり直しのときですが、受験する子どもたちにとっては人生初めての経験であり、当面の進路の決まる重要な準備学習の始まりです。私たちの使命とは何かを忘れないよう心に留め、来年の入試に臨んでいきたいと思っています。

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カテゴリー: 中学受験

子どもの幼さをどう解消するか

2010 年 2 月 8 日 月曜日

 先週の月曜日には、わが子の中学受験を思い立ったものの、“幼稚さ”という思わぬ落とし穴に気づいて愕然となった作家のことをご紹介しました。

 こういう例は、枚挙にいとまがありません。というより、それこそが中学受験で子どもたちのだれしもが乗り越えなければならない壁なのです。特に男子の場合、この壁を乗り越えるための苦労が大変なのです。ただし、受験生である子ども自身は無邪気なもの。「このままではいけない」と、焦ってあくせく苦労を強いられるのは親なのです。無論、指導を担当する者も同様です。

 筆者は、長年6年生の男子の国語指導を担当してきましたので、この種の問題と縁が切れることはありませんでした。

 ところで、わが子の幼稚さを解消するために、件(くだん)の作家が試みた方法とはどのようなものだったのでしょうか。

 「とにかく何かを始めなければならない」ということで、漢字の問題集を買い求めたそうです。なぜなら、文章を読みとるには漢字をちゃんと読めることが大前提だからです。そこで、漢字も書き取りではなく読みのほうを重要視して子どもに取り組ませました。

 ただし、問題集に載っている熟字訓や難しい熟語などを見ると、大人でもちゃんと読めないような難しいものがたくさんあります。たとえば、流布・成就・師走・由緒・形相・素行・体裁・出納・相殺・律儀・権化・建立・行脚など。こういった熟語を意味から理解して読み方を学ぶのは大変です。「こういうものは丸暗記しかない」と思って、とにかく子どもに丸暗記させようとしたのですが、やがてこういった難しい熟語が素材文にそうそう登場するものではないということに気づきました。

 このような試行錯誤を通じて、その作家はあることに思い至りました。漢字の学習の甲斐あってか、難しい漢字をかなりの数読めるようになったというのに、相変わらず文章の読みが遅いのはなぜか。それはごく普通の漢字につまずいてしまうからでした。以下は、その作家の本からの引用です。

 文章を読むために必要なのは、次のようなごく普通の漢字の知識だということが、ようやく私にもわかってきた。

日常使う言葉 こういった日常用語を読みこなし、意味を理解すること。しかも、一つ一つの単語にひっかからずに、流れるようにすらすら読んでいくことが、長文を理解する鍵なのだ。

 抽象語の理解も大切だ。「調和」とか「博愛」とか「民主主義」とかいった、目で見えるイメージにならない熟語の意味を把握することは、子供にとっては大きな負担なのだ。しかし入試の長文では、そういった抽象語がキーワードになることが多い。

(中略)結局のところ、言葉というものは、日常生活のなかで、自分で遣って覚えるものだ。ところが、わが次男は、精神年齢がきわめて幼くて、いまだに「おなか、すいた」「これ、ほしい」「あれ、何」といった、文章にもならない断片的な会話しか交わせない。だから、「速やか」とか、「早急に」などといった言葉は、彼にとっては外国語みたいなものだ。

 おそらく、この作家は息子さんの語彙力増強に向けていろいろな手を打ったのでしょう。このとき息子さんは5年生でした。5年生といえば、人間の生涯で一番語彙数の増える年にあたります。つまり、記憶力の最も優れる年齢期にいます。ですから、やったらやったなりに語彙は増えていたのではないかと思います。

 しかしながら、ただ片っ端から新しい言葉を覚えようとしても、それは読解力の増強にはつながりません。言葉が実用語彙として身につくには、実際の生活場面で何度も耳にしたり(話し言葉からの語彙獲得)、読書の繰り返しのなかで同じ言葉に度々出会ったり(書き言葉からの語彙増強)する経験が不可欠です。そうやって初めて、ニュアンスも含めて理解したり、使い分けたりできる言葉になるのです。ですから、そうそう目に見える成果にはつながらなかったのではないかと思われます。

 中学受験に関わっていて、いつも思うのは「親のありがたさ」です。この作家も、結果を先読みして失望してしまうのではなく、わが子の受験に結果を得させてやろうと、最後まで粘り強くわが子にとって善いと思われることを働きかけておられます。そうした親の涙ぐましいサポートは、受験の結果を超え、親子が永遠に記憶する共通の思い出になることでしょう。

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カテゴリー: アドバイス, 中学受験, 勉強の仕方, 子育てについて, 家庭での教育

子どもを取り巻く環境の変化と子育て

2010 年 2 月 4 日 木曜日

 近年は、地域社会の教育力が衰退していると言われています。これは、もうずいぶん前から指摘されていることですが、ますますその傾向が強くなっているように思います。地域の教育力が低下すると、家庭単位での子育ての負担もそれだけ大きくなります。子どもが勉強しなくなりつつあることも、当然の成り行きかもしれません。

 原因はいろいろあるでしょう。核家族化の定着で、子どもの周囲におじいさんおばあさんがいなくなったこともその一つだと言われています。近所の子どもが集まって遊べるような広場もすっかり少なくなりました。そもそも、子どもたちがみんなで群れて遊ぶことを志向しなくなっていることも言えるかもしれません。携帯電話や電子ゲームは山奥に住む子どもたちをもとりこにしています。このような子どもをとりまく環境の変化は、様々な形で子どもから勉強を遠ざけているように思えてなりません。

 あるとき、アメリカの有名なカウンセラーの本を読んでいると、子育てが難しくなっている現実とその原因について書かれていました。そして、今やアメリカも日本も状況は同じであることに改めて気づかされました。筆者が着目した部分をご紹介してみましょう。

 二十年前、近所の誰もが、同じ価値観と信念をもっていた。例えば、どこに遊びに行っても、規則は同じであった。どの親も同じ期待をもっていた。今はそうではない。すべての家族は独自の規準をもっている。子どもは正しいことと間違ったことについて、さまざまな解釈があるのを経験する。これは子どもにとって、まことに紛らわしいことだろう。

 社会のこれらの変化は、子どものしつけ方にどのように影響するだろうか。古いやり方は、単純な社会における解決策だった。今日の問題はより複雑である。それらは、きめこまかな解決策を必要としている。子どもは過去ではなく、未来に生きている。だから私たちは現代の困難な状況に対処する必要がある。もし親として成功したいなら、現代の子どもをどうしつけるかを心得ている必要がある。親は、訓練されなければならない。今の親に能力がないからではなく、親であることが容易でなくなった時代だからという理由で。

 家の内と外の行動基準が異なると子どもは戸惑います。何がよくて、何がいけないのかの判断が混乱してしまうからです。しつけ・教育が家庭ごとに違っていると、地域社会は子どもを方向づける力をもち得ません。

 家庭ごとの生活スタイルがほぼ同じで、価値観も違っていなければ、子どもも大概は同じような暮らしをし、近所の子どもが連れもって楽しく遊ぶことができます。そういう毎日のなかで、自然と大切なものを身につけたり、他者から触発されたりする機会もあるでしょう。

 かつての日本の地域社会は、どこでもそういう機会を子どもに与えてくれました。以前、発達心理学者の岡本夏木先生の子ども時代のエピソードをご紹介したことがあります。先生は、ガキ大将だった近所の上級生との交流を通じて、漢字に興味をもち、ものを知ることへのあこがれを抱いた経験を著書に書いておられました。この経験が先生の人生に意味をもたらしたことは想像に難くありません。

 今日の日本でそういうことが期待できるでしょうか。残念ながら、子どもが本を貸し合ったり、上級生が下級生に本を読んでやったり勉強を教えてやったりする光景を見ることはほとんどありません。

 こうなると、しつけや教育はプライベートなものになっていかざるを得ません。学校から帰った子どもが、鉄砲玉のように家を飛び出し、暗くなるまで帰ってこない。そんななかでも学力優秀な人間が育っていたのは昔のことです。今では、親が意図して子どもを勉強に向かわせる算段をしないと、子どもが自分から勉強に向かうようになることはありません。

 かつては塾に行かなくても、学力を自分で培い、優秀な大学へ進学する人間がかなりいたものです。しかし、今日ではそういったことを可能にする環境が子どもに用意されていません。「自分の子だから、いずれ勉強で頭角を現すだろう」と思っていたのに、いつまで経ってもその兆候が表れない。そういう話をよく耳にしますが、かつて自分を育ててくれた環境と、今のわが子のそれとは同じではないということを、親は省みる必要があるでしょう。

 中学受験は、そういった意味においても着目に値する存在ではないでしょうか。子どもに目標をもたせ、一生懸命に学ばせる。受験の合否結果より、それをめざしたプロセスから得られる収穫が少なくないのです。それを思うにつけ、進路選択の手段としての中学受験ではなく、子どもの可能性を広げるための中学受験という発想が、もっとあってもよいのではないかと筆者は思っています。

 実際、弊社の教室で学んでいる子どもたちは、生き生きとした表情をしています。いつも笑顔が絶えません。そこには、入試突破のために辛さに耐えて勉強をしているといった趣はありません。いかにも学ぶのが楽しいといった風情です。こういう体験こそ、本来どの子どもにもさせる必要があるのだと思います。それが、もはや塾のような特定の場所でしかできなくなっているのが現実ではないでしょうか。

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カテゴリー: 中学受験, 子どもの発達

わが子が“幼稚なタイプ”とわかったとき

2010 年 2 月 1 日 月曜日

 親はわが子のことをよくわかっているつもりでいるものです。しかしながら、年齢相応の知的発達度がどういうものであるか、それに対してわが子がどういう状態にあるかを掌握している人はごくわずかです。そこで、受験生活がスタートして初めてわが子の現実に気づき、大慌てになるおとうさんおかあさんは珍しくありません。

 その最たる例が、「うちの子は、考え方が幼稚で国語がサッパリできないことがわかった」というものです。こういうお子さんは、国語ができないだけでなく、算数の文章問題の出題意図などの読み取りも苦手としますから、親が慌てるのも無理はありません。

 一つ、具体的な事例をご紹介しましょう。ずいぶん前ですが、ある作家が、自分の子どもの中学受験までのプロセスを一冊の本にしたところ、評判になりました。以下は、その一部をご紹介したものです(スペースの都合で、途中を随分省略しています)。

 次男が小学校4年生の時のことだ。妻は庭の隅にマナ板を出して、日光で消毒していた。次男がそのマナ板に気づき、
「ほら、あそこに、木の板がある」
と言った。私はいやな予感を覚えた。どうも、冗談を言っているわけではないようだ。庭に出て、その「木の板」を手に取り、息子に向かって尋ねた。
「これは何だ」
「ええっと、それ、食べ物を切る台でしょ」
仕方がないので、私は息子に目の前のその「木の板」をつきつけながら
「これはマナ板というものだ」
と教えた。

「ああ、マナ板か」
と息子がいくぶん悔しそうに答えたので、知っているのに度忘れで答えられなかったのだろう、とその時は思った。だが、念のためということもある。妻が帰って夕食の支度を始めた時、私は次男を呼び、もう一度マナ板を指さしながら、これは何だ、と尋ねてみた。すると次男は答えた。
「まご……いた……」
これには妻も腰を抜かしてしまった。

 これ以後、私たちは次男のことを「まごいた少年」と呼ぶようになった。笑いごとではない。私は、次男が生まれてから現在に至るまでの、自分の態度を反省した。極端な言葉の遅れと、意外性のある計算能力を面白がるばかりで、何の対策も立てなかった結果が、この「まごいた」事件になって現れたのだ。

 この場面より後には、息子さんの国語力を立て直すべく、この作家が悪戦苦闘している様子がユーモアたっぷりに書かれていました。実際、大変であったろうと思います。

 筆者にも似たような経験がたくさんあります。たとえば、理系の頭脳は大変優れているのに、国語がサッパリできない女のお子さんがいました。ノートに登場人物を列挙させたところ、文章には登場していない「おはち」という、物語のシチュエーションにそぐわない時代がかった名前を書いています。どうしてこんな間違いをしたのか調べてみると、「今度は次のグループにおはちが回ってきた」という表現を理解できず、「おはち」を人名と勘違いしていたのでした。

 さて、さきほどの作家の場合、国語力を巻き返すのに2年間が残されていました。そうして、さまざまな試みをした結果、「大人が普通に会話などで使っている言葉の知識を獲得することこそが、中学入試突破の決め手になるのだ」というような結論に到達したそうです。

 残念ながら、筆者が指導していた女の子は6年生でした。また、当時は筆者も経験不足であり、あれこれと試すものの効果が得られないまま、入試を迎えてしまったことを思い出します(幸い、その女の子は総合力で志望校の一つに受かりました)。

 子どもの言葉と思考の発達度から生じる諸々の問題は、おそらくおびただしい数の中学受験生家庭で繰り返されていることであろうと思います。近いうちにこの問題への対処について書いてみようと思います。ただし、4年生が子どもの語彙が爆発的に延びる時期であることは、すでに何度も書きました。そこでの内容との繰り返しになるかもしれませんが、もし興味をおもちになったら読んでみてください。

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カテゴリー: アドバイス, 中学受験, 子育てについて, 家庭での教育