2010 年 3 月 のアーカイブ

私学に進学することの意義を考える  ~その2~

2010 年 3 月 11 日 木曜日

 先日は、私学のよさについて考えてみたことを記事にしてみました。中学生までは義務教育期間であり、公立の学校に通えば無料です。それなのに、敢えて私学へわが子を通わせるとしたら、それだけの利点やメリットがなければなりません。

 前回は、私学というものの成り立ちに目を向け、そこにまず私学のよさがあるということについて書きました。人間形成の仕上げの時期にあたる、思春期~青年前期の学校生活において、精神的バックボーンを得ることは大変大きな意義があるのです。

 無論私学のよさや評価されるべき点は他にも多々あることでしょう。そこで今回も、私学のよさはどこにあるかについて、引き続き考えてみたいと思います。

 私学を選択する理由の一つとして多くの人が挙げるのは、何と言っても大学受験に有利であるという点です。もともと学力の高い生徒さんが集まるうえ、カリキュラムの進度がはやい私学は、大学受験において有利であるのは間違いありません。

 東京などののつく一流進学校では、中学校入学後の1年間で中学校課程の学習を終えると聞いています。広島ではそこまでする私学はありませんが、それでも多くの場合、中1・中2の2年間で数学や英語などの主要教科については中学校課程の学習を終えています。

 これは、中学校課程と高校課程のカリキュラムの密度の差が大きいことから、中学校課程のカリキュラムを圧縮してしまおうという発想からきたもので、全国ほとんどの私立進学校はこの圧縮型カリキュラムを採用しています。これによって、高校2年生までに高校課程の学習を終え、最後の1年間は大学受験対策に力を入れることが可能となっています。

 ただし、カリキュラムの進度がはやいということは、いくら学力の高い生徒さんの集団とは言え、そこでの学習生活は決して楽でないということを意味します。しかしながら、そういう環境がまた人をつくるのではないでしょうか。

 たとえば、私学出身者に多く見られる、何事にも見極めがはやくてきぱきものごとを処理する能力は、私学のはやいカリキュラム進行や、学内での高い次元の競争があるから磨かれるのではないでしょうか。こうした環境にいると、先を読み、早めに自分を追い込んで行動していく姿勢も身につくでしょう。私学出身者に、行動面で洗練された人物が多いのは、厳しい学習環境を積極的に受け入れ、自発的に学ぶ姿勢を培ってきたからだと思います。

 ただし、近年は特定の公立高校に優秀な生徒さんを集めることが可能になり、学力が高いことは私学の専売特許とは言えなくなりつつあります。筆者としては、前回お伝えしたような、私学ならではの教育に魅力を感じるのですが、みなさんはいかがでしょうか。

 筆者は、学習塾の広報担当者として、年間かなりの回数私学を訪問する機会があります。そういう経験をしていて「私学っていいな」と思うようになったこともあります。

 たとえば、広島にはいくつかの女子だけの私立中・高一貫校があります。H校の生徒さんは、明るく伸びやかな校風で知られています。みなさんよくご存知ですが、実際生徒さんは無茶苦茶明るくて、行動面ではやや弾けすぎていて危なっかしい印象を与える生徒さんもいるようです。しかし先生がたは、「自分で考えて行動し、少しずつ経験から学び、自立した自分の生き方のできる女性に育ってほしい」と願っておられます。ですから、敢えて細かなこと、些細な点を注意したり叱ったりせず、おおらかに教育されています。そして、影ではとても心配しながら愛情深く見守っておられます。

 そのせいでしょうか。この学校の生徒さんは、例外なく「学校が大好きだ」と言います。卒業してからも、ずっと母校愛が失われることはありません。

 このH校とある意味で対照的なのがY校の生徒さんかもしれません。Y校といえば、かなり厳しい躾教育で知られます。このため、なかには学校を窮屈に思う生徒さんもいるかもしれません。しかし、この学校を訪問していると、実に先生がたは細かく生徒さんを見守っておられることに気づかされます。たとえば、先生と校内を一緒に歩いていると、いつの間にか先生の姿が見えません。辺りを見回すと、生徒さんに話しかけておられます。どうやら、服装か態度について話をしておられるようです。その様子は、叱るというより優しく注意を促しているという雰囲気です。

 こういう教育は、ひょっとして在学中の生徒さんには歓迎されない面もあるかもしれません。しかし、学校を出て、社会人になってからその教育の何たるかを理解し、先生がたや学校への感謝の気持ちを抱く人は多いと思います。礼儀正しさや、慎み深く己を律することの重要性は、社会に出て初めて身にしみて感じることだからです。

 いずれも私学ならではのカラーであり、優劣を論じるのははばかられるものです。あとは、おとうさんおかあさんがたの好みかもしれません。どちらにも魅力があります。どうでしょうか。

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カテゴリー: 中学受験, 私学について

子どもを“籠の中のネズミ”にしない

2010 年 3 月 8 日 月曜日

 筆者は長年中学受験指導の現場に立ち、子どもたちの受験生活、受験勉強を応援し見守ってきました。この間、学校教育ではゆとり教育の推進、ゆとり教育への反対運動を発端に起こった学力低下論争、ゆとり教育の修正と、公教育も随分揺れ動いてきました。

 学習塾にいる私たちは、公教育の舵取りについて何ら権限をもたない“お気楽な”立場にありますが、傍目で見ていても、今日の社会で公教育の路線を一本化することがいかに困難かを思い知ることになりました。

 ただし、公教育の変遷や混乱は、社会の変化、ライフスタイルの変化、家庭教育の変化など、子どもを取り巻く環境の変化に根ざしています。ですから、子どもの学力低下も、国の教育に関する施策の是非を云々する以前に、顕在化することが避けられない問題であったように思います。

 有名な学者の本に、次のような著述がありました。

 実験動物は、生まれたときから籠の中で、水と飼料を十二分に与えられて育つ。籠の外に出すと、恐る恐る歩いて、逃げ出したりはしない。置かれた机の端をヒゲで触って、どんなところかゆっくり調べているつもりらしい。籠の中という環境は、自然の状況に比較したら、極めて単調である。そこでは動物は、生まれ持った能力のほとんどを使う必要がない。いまでは大学で出合う若者たちが、こうしたマウスやペットに見える。

 だからといって、日本の将来を悲観しているわけではない。そうした育ちのネズミが籠から出てしまうことがあった。一週間もすると野生化して、簡単には捕まらなくなる。

 当時の大学は、いまとは比較にならないほど管理も悪く、建物もボロだった。野良猫が自由に出入りしていたり、廊下をクマネズミが歩いていたりした。そういう環境に放された籠のネズミは、あっという間に野生化する。水と餌とねぐらを、自分で探さねばならない。周囲は危険に満ちている。そういう状況に置かれたとたん、籠育ちのネズミが急速に育つ。

 いま教育問題がやかましい。子どもの評価のなんとかとか、指導要領のなんとかとか、教育の問題を議論する会合に年中呼び出される。教育の根本は何かというなら、話は簡単である。水とねぐら、それを自分で探すようにさせる。そうすれば、あっという間に子どもは育つ。以上終わり。

 現代社会では、かつてのネズミにとっての大学の廊下、その程度の緊張感のある環境もない。安全快適、どこにも危険など見えない。親があえて子どもを放したって、社会環境が安全第一だから同じことである(一部省略)。

 籠の中のネズミを教育しようと思っても、相手が教育を受ける動機を持たないのだから、気合いの入れようがない。水も、ねぐらも、とりあえずある。それ以上に、何が必要だというのか。

 20年前と比べて子どもの変化を顕著に感じることがあります。たとえば、「子どもが幼くなってきた」ことや、「子どもの学習意欲が相対的に下がってきている」ことを実感しますが、これらも上記のようなわが国の現実を裏づけることなのでしょう。

 さて、これをお読みになった親御さんは、わが子の中学受験勉強のありかたについてどのような見解をおもちでしょうか。中学受験専門塾としての弊社は、40年あまり前の設立当初より「積極的学習姿勢の育成」「自学自習の姿勢の確立」を指導の方針として掲げてきました。そして、そういう受験勉強の大切さがますます必要な世の中になっているように思います。

「子どもを温室育ちにしてはいけない」、「過保護・過干渉は子どもをスポイルする」などという言葉が、以前から子どもの教育について語られています。将来高い次元の学力を養い、社会で活躍することを嘱望される子どもが、大人の指示や手助けに頼った受験対策をしたのでは、いつまでも人間としての主体性を備えることはできませんし、自らを律する術(すべ)を身につけることはできません。これでは身につけた学歴も意味をなさなくなってしまいます。

 中学受験においては、受験生は小学生ですから大人のサポートは不可欠ですが、くれぐれも子どもの自立にブレーキをかけないように注意したいものです。子どもの学習意欲があがらない。そのことを嘆くご家庭の問題点を突き詰めると、原因は意外にも子どもに接する親や周囲の大人にあるかもしれません。

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カテゴリー: アドバイス, 中学受験, 子どもの発達, 子育てについて, 家庭での教育

実体験が不足した子どもはどうなる?

2010 年 3 月 4 日 木曜日

 いきなり質問を浴びせるようで恐縮ですが、次の三つのなかで実際にあったできごとはどれか選んでみてください。

  1. 1. 「カブトムシが動かなくなった」と言って、電池を買いに行く子どもが現れた!
  2. 2.ある大学のクラスで、学生の約57パーセントが、4本足のニワトリを描いた!
  3. 3.バードウォッチングをしていた少年が鳥を見て、「あれはニセモノだ!」と叫んだ。

 さて答えですが、三つとも本に「実際にあったこと」として紹介されていた話です。

 カブトムシについて。10年くらい前でしょうか。ある理科系の教育専門誌にショッキングな記事が載って話題になりました。“日本の理科教育が危ない!!”というタイトルのその記事には、次のようなことが書いてありました。「ある小学生の子どもが、カブトムシを買ってもらった。カブトムシが死んだのを見て、『カブトムシが動かなくなった』と、その子どもがコンビニに電池を買いに走った。生き物としてのカブトムシを全く理解せず、『動かないのは電池が切れたから』と反応する日本の子ども。これは、日本の理科教育の危機を示すものではないか……」 以来、同じ記述を紹介した本を読む機会が何度かありましたが、それだけ衝撃的でインパクトのある記事だったのでしょう。

 次は、4本足のニワトリについて。ある大学の理科教育法の教授が、著書に記述しておられたことですが、学生にニワトリの絵を描かせたところ、4本足のニワトリを描いた学生が少なくなかったというのです。やはり大学で教育現場に立っておられる先生が、「本当だろうか?」と、同じことを試してみたところ、何と57%の学生が4本足のニワトリを描いたそうです。

 三つ目の「あの鳥はニセモノだ」と叫んだという話について。鳥類図鑑を携えてバードウォッチングをしていた少年が、木にとまっている鳥を見て、「あの鳥は間違っている」と言ったという話が鳥類研究家から報告されていたそうです。

 以下は、二つ目の話を紹介しておられた先生の著述の一部です。

 この事実には、日本の教育の本質が表れていると見ることができる。知識の習得の仕方が具体を離れて抽象化を急ぐあまり、目的化してしまっている。スズメ、ニワトリ、ハトをひっくるめて「鳥」といい、鳥は空を飛ぶ動物であるという知識・概念を覚えてしまっている。そのために、図鑑が正しくて自然は間違っているという本末転倒の認識ができあがり、それを何とも思わない。そこに、いかにして図鑑ができあがったかという、その過程が切り捨てられているのである。問題なのは、小学校や中学校の基礎的知識を形成する時代に、具体を離れた知識を多く身につけると、その上にいくら知識を積みあげても砂上の楼閣になる危険性があることである。鳥が4本足であるという誤った知識をもつと、それを前提にものを考えるので、鳥が採餌するときや交尾行動を想像することは困難になり、思考を深めることはできない。若者がものを深く考えることを苦手とするのも、こんなところに原因があるのではないか――

 知識を真に意味のあるものにし、思考の手だてにするには、実体験の場で事物を直に見、手に取ってみたり、触れてみたりする必要があります。それが、言葉で伝えきれないそのものの性質や属性までも理解することにつながり、思考を進めていく際の手助けをしてくれます。自分が実際に知っているものを頭に思い浮かべるのと、実態のよくわからないものをイメージするのとでは、思考そのもののあり方が違ってくるのは当然のことでしょう。

 無論、人間はこの世に存在する全ての具体物を直に見ることはできません。しかし、そうした体験が豊かであれば、それだけ似たものを類推する力も備わります。言葉だけの知識を丸飲みにしても、それは考え、思考していく脳の働きを助けてはくれません。

 先ほど、「図鑑が正しくて、実際の鳥の方が間違っている」と言った子どもの話をご紹介しましたが、これは知識獲得の道筋を誤るとどうなるかを教えてくれる事例でしょう。たとえその鳥を見たことがなくとも、野鳥を目の当たりにする経験を豊富にもっていた子どもなら、このような反応をすることはないと思います。また、図鑑で確かめたときに、「どの鳥の仲間か」という発想から、野鳥に関する知識をさらに拡充させていくことでしょう。また、「4本足のニワトリを描く学生」にしても、鳥類というカテゴリーの特色をたくさんの事例で知っており、さらには家畜としてのニワトリの歴史を思い起こしていく視点をもっていれば、「飛ばないから4本足」という短絡的な考えに陥ることはなかったのではないでしょうか。

 図鑑がいくら精巧に出来ていても、ネット検索がいくら発達しても、具体物で実際に確かめることを軽視してはならないということを、改めて考えさせられる話です。

 もうすぐ春休みです。テーマパークなども楽しいでしょうが、お子さんと一緒に魚釣りに出かけたり、森の探索に出かけたりするなど、自然にふれる体験も予定に組み入れてみたらどうでしょうか。

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試練があるから大きくなれる

2010 年 3 月 1 日 月曜日

 中学入試の会場に行くと、高校や大学への受験ではあまり見ない光景を目にします。そう、ほとんどの子どもが親つきなのです。小学生の受験ですから当然のことです。

 しかしながら、もう思春期の入り口に立つ年齢の子どもたちですから、不安げに親にピッタリ寄り添っているような姿はあまり見かけません。入試会場に到着する子どもたちの様子を見ると、ぶっきらぼうな顔をして親から少し離れて歩いたり、無言で並んで歩いたり、親と一緒にいるのを恥ずかしそうにしたり・・・・・・。

 そんなわが子に対して、おかあさんがたは優しい表情でわが子を気遣ったり、心配げになにやら話しかけたりしておられます。このような様子を見るにつけ、親の子どもに対する愛情や期待がどんなに大きいかを痛感せずにはいられません。

 ある年の中学入試でのことです。広島の私立最難関校で知られる中学校の入試でもあり、会場前のグランドは、受験生、親、塾関係者などでぎっしりと埋め尽くされていました。その当時、受験生は受験番号順にグランドに整列し、校長先生が激励の言葉を述べられてから、プラカードを手にした先輩に導かれて一斉に入室していました。この物々しい雰囲気は、今でも鮮明に記憶に残っています。

 さて、受験生の入室がすっかり終わりました。気がつけば、直前までの喧噪が嘘のように静まり、校庭は人影もまばら。そこで、入試応援のために駆けつけた私たちも役割を終え、会場を後にすることにしました。そんなとき、背後から「先生」と筆者を呼び止める静かな声がしました。

 振り返ると、担当クラスのM君のおかあさんでした。「先生、うちの子の性格をご存じでしょうか」 おかあさんは意外な話題を切り出してこられました。「落ちつきがあって、しっかりとしておられると思いますが・・・・・・」――そう答えたものの、おかあさんの真意がわかりません。「先生、あの子の欠点は、見かけと裏腹に気が小さくて緊張に弱いことなんです」 そう言って、一礼して立ち去るおかあさんの姿を見送っているうちに、やっとことの次第が飲み込めてきました。

 M君は、今日の第一志望校入試の前に、第二、第三志望校の入試を終えていたのですが、いずれも失敗していました。先ほどのおかあさんの言葉は、「わが子の入試は終わりました」という、敗北宣言のようなものだったのでしょう。

 おかあさんの言葉が頭の中を駆けめぐり、なんだかとても重いものを受け取ったような気持ちになりました。重圧と闘いながら試験に臨むM君の心境は、いかばかりでしょう。M君が入室した校舎のほうを見上げ、私たちは「がんばれよ!」と、彼の奮起を念じるばかりでした。

「そうだったのか・・・・・・」小学生にしては大人びた彼の風貌は、気弱で緊張しがちな少年と全く結びつきません。本来の力を発揮すれば合格して当然の彼に、弱気という自分の中の敵がいたのです。おそらく彼は、最初の入試でプレッシャーに負け、我を忘れてしまったのでしょう。思いがけない失敗に、彼の自信は根底から揺さぶられ、悪循環を招いたに違いありません。もはやわが子の入試は終わった。そう、おかあさんは覚悟を決められたのだと思います。

 窮地に立ったとき、開き直れる人間がいます。しかし、彼の性格ではそれも難しいかも知れません。もはや、残念な結果を待つだけなのでしょうか。「もっとメンタルな面にも気を配り、何らかの対策を講じるべきだった」そんな後悔をしたものの、後の祭りです。

 ところが、彼はやりました! 自分の弱気に打ち勝ち、最後のチャンスをものにしたのです。第一志望校であったあの私学に、見事合格したのです。何ということでしょう。

 崖っぷちに立たされたとき、彼が何を思ったかは未だにわかりません。しかし、最後の最後に意地を出し、がんばったことだけは確かです。試練を克服したとき、彼はきっと「もう、こわいものなどないぞ!!」と、大いなる自信を手にしたことでしょう。

「最後まであきらめるな」と、子どもたちにはよく言います。しかし、気休めなどではありません。子どもは、いざというときに信じられないほどのがんばりを発揮することもあるのです。このがんばりの源が何かはわかりません。しかしながら、おかあさんから注がれる愛情がその一つであることは間違いありません。
 

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