“わける力”と“つなぐ”力  ~その1~

2010 年 10 月 25 日

 ある教育社会学者の本を読んでいたら、「学力とは何か」について言及されている箇所がありました。読み進めると、近年指摘されているところの学力問題の本質にふれる指摘があり、考えさせられることになりました。今回はそのことについてご紹介してみましょう。

 まず、学力とはどういうものかについて書いておられる、その学者の著述をご紹介しておきます。

 「わかる」とは、「分かる」である。ものごとをちゃんと分けて捉えることができるか。輪郭のぼんやりとした対象をまとまりごとに区切って認識することができるか。それができなければ、世界はピンぼけのまま、霧のかかった状態にとどまる。

 しかし、それだけではない。分けられた個々の要素を、今度は関連づけて把握しなければならない。部分部分をつなぐことによって、ひとつの全体として理解するのである。そのことによって、世界は秩序あるものとして、私たちの前に姿を現すことになる。(中略)

 子どもたちも、さまざまな場面での学習活動を通じて、まず、「わける力」を獲得していく。そして、それに随伴する形で、「つなぐ力」を得ていく。赤ちゃんは一歳前後から「単語」を獲得していくが、三歳児ともなれば、ほとんどの子どもが日本語の「文」を自由にしゃべれるようになる。その発達ぶりは、真に驚嘆に値するものである。

 その後の学校教育のプロセスを通じて、子どもたちには、さらに高度な「わける力」と「つなぐ力」を身につけることが期待されるわけだが、そこでひとつの深刻な問題が浮上してきている。すなわち、近年の学力低下論争をまつまでもなく、子どもたちの学力、とりわけ「つなぐ力」のほうの衰えが憂慮されるようになっているのである。いわゆる「考える力」の低下などとされる事態である。

 学力は、「わかる力」と「つなぐ力」とで成り立つ。まずは「わかる力」が備わり、それに伴って「つなぐ力」が身についていく。これらについては、「単語」の習得の積み重ねから、やがて「文」を自在に操れるようになっていく例で説明されていますが、とてもわかりやすいですね。

 ところで、筆者がハッという思いに駆られたのは、このあとの記述に、今日の教育の抱える深刻な問題の核心部分をみる思いがしたからです。引き続き、直後の部分をご紹介します。

 この点に関して、私はひとつの仮説を有している。それは、これまで述べてきた知的な側面での「わける力」と「つなぐ力」は、その子どもの情意・行動的側面での「わける力」と「つなぐ力」に密接にリンクしているのではないかというものである。

 情意・行動的側面での「わける力」とは、端的に言うなら、「自分自身を周囲の人たちとは独立した存在と捉える気持ち、およびそれに基づいて行為すること」を差す。平たくいえば、自律性・独立心といったものである。他方、情意・行動的側面での「つなぐ力」とは、「自分自身の認識や生活を他者や世界と関連づけ、積極的に関わろう・つながろうとする気持ちや行動」を指すと考える。言い換えるなら、コミュニケーション能力・連帯感などが、それに相当する。

 この学者によると、情意・行動面においても「わける力」は「つなぐ力」に先行するそうです。つまり、自分は独立した一人の人間であるという意識をもつことから、人とのつながりやコミュニケーションが始まり、豊かな人間関係が築かれていくのです。

 まずは己を意識し、自分を一個の人間として正面から見つめる。自分と他者とを区別する。そうやって「わける力」をしっかりと育てておかないと、他者依存の状態に陥ってしまうというのです。また、「わける力」を育てても、「つなぐ力」を育てなかった人は、協調性や思いやりを欠き、その結果他者攻撃に走ったり、孤立したりする恐れがあります。

 またこの学者は、子どもたちの学力形成における「つなぐ力」の低下は、子どもたちの情意・行動面における「つなぐ力」の衰弱が原因の一つになっているのではないかというようなことを述べていました。「学力低下」と「社会性の低下」の問題は、根を同じくする問題なのだということのようです。

 この学者が指摘しているような問題が現実にあり、対処すべき状況を来しているのをご存知でしょうか。教育のプロセスで培われるべき「つなぐ力」が欠如したために、これまでみられなかった若者の病理ともいうべきものが現象化しているのです。次回は、このことについて話を進めてみたいと思います。

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カテゴリー: 中学受験, 子どもの発達

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