数学とは何か その1
月曜日, 4月 28th, 2014
このところ、「文士はみな数学嫌いである」と語った作家の言葉に着目し、それが本当かどうかを調べた大学の先生の著作の内容をご紹介しています。
今回は、この本の著者が「数学とは何か」について、作家や数学者を対象に実施したアンケートの結果を踏まえながらご自身の見解を述べておられるので、それをご紹介してみようと思います。
① 数学は抽象の世界である。
言うまでもありませんが、数学という科目を特徴づける特性はその抽象性にあります。そこで著者は、「多情多感な作家たちが、この具象的世界から感情や一切の色彩を拭い去った灰色の抽象世界を、どのように見ているかから入ってみよう」と述べ、作家が数学のもつ抽象性ゆえに数学嫌いになった理由を列挙しておられます。
・算数は無味乾燥な気がした。
・カレーライスの中のニンジンや玉ネギのようなもので、体が受けつけなかった。
・人間の匂いがないので面白さを感じなかった。
・夢がない、人間的本質と無関係。
・こんな抽象的な数字のいじくりをなんのためにするのか心外だった。
・文学のように直接人生と交渉がないから。
・情緒に訴える面がなかったためと思う。
上記以外にも、同じような理由が多数紹介されていました。それから、「数学に対してこのような受け止めかたをする人たちの中には、普通の生徒が何ら抵抗なく受け入れられるような事柄にもひっかかりがちな人がいる」として、次のような子どもの例をあげていました。
「君の弟が君より四つ少ないとしたら・・・・・・」という問いかけをすると、「ぼくには弟がいない」と答えたり、教師が、甲村から乙村までの道のりが四キロある・・・・・・という問題で、甲、乙を直線で図示すると、あんなまっすぐな道はないのに・・・・・・とひっかかるのである。
この種の子どもは、「ないものをあると仮定するとか、具体的事物の一属性を取って他を捨てて、抽象化することにつまずきやすい」のだそうです。
しかしながら、数学の特性として第一に挙げられるべき抽象性が、数学になじめない、数学がわからない原因になる一方で、この抽象性ゆえに独自の美学が存在するのが数学です。そして、幸運にもその美学にシンパシーを感じた人たちは、数学の魅力に引き込まれ、数学を愛してやまない人間になっていくのでしょう。
② 数学は論理体系である。
著者は、「数学は公理から出発して、厳密な理論によって定理を導き出す理論体系であることも、今さら言うまでもない。そこに数学独特の正確性と堅実性が見られるのだ」とし、こうした数学ならではの論理性に、作家たち、数学者たちが引きつけられた例をあげておられます。
<作家編>
・ごまかしのきかぬ論理の追求が面白かった。
・運算そのものが好きだった。一つの答えを求めて論理的に追求している作業がこころよかった。
・明快な答えがでるから。
・可否明瞭。
<数学者編>
・論理が明快でアイマイさが少ない。
・論理的整合性。
・形式的合理的で頭を使わなくとも、正しい結果が出るから。
・筋が通っていて確信をもって、理解推論できるから。
・その明快さ。
・論理的思考だけで体系を創りあげていくことは、最大の魅力であった。
・論理がすっきりしている。
・正不正がはっきり自分で納得できる。
以上のような論理性ゆえに数学を嫌いになった作家の言葉も紹介されています。
・数学は一つの回答しかない。作るということがない点がきらい。
・定理というものとか、方程式というものがきまっていたことが、よくわからぬし、気にくわなかった。
・約束を強制するから。
・数学は約束の学問で想像の世界と反対。
著者は、数学の抽象性や論理性に対してそっぽを向きたがる人も、数学の思考原理は日常生活のなかにあるものを拾い上げたものにほかならないことを知るならば、ことの意外さに驚き、数学を見直すのではないだろうか」と述べ、有名な数学の権威の言葉を引用しながら、数学が現実の世界をかけ離れた世界を扱った学問ではないことを説明しています。
たとえば、近代統計学で威力を発揮しているサンプリングの原理も、わが国で昔から行われている料理の味見をするときの「よくかき混ぜてから、一さじすくってなめてみる」ことにほかならないこと。現代抽象代数学の基本概念の一つである「構造」は、スポーツの試合に見られる三チームの勝負が「三すくみ」の関係になる場合であること。「群」の概念は、スイカの中身を調べるのに、立ち割ってみる方法と、叩いてみる打診法とがあるが、「群」はその打診法のようなものであることなどが紹介されていました。
③ 数学は記憶ではない。
数学者を対象としたアンケートにおいては、数学好きだった理由に「記憶しなくてよかったから」というのがかなりあったそうです。回答例を挙げてみましょう。
・暗記不要なので。
・記憶することが少なくてすんだから。
・丸暗記でなく一つの法則から多くの結果が理解されるから。
・記載的事実を覚える量が少なくてすむから。
・丸暗記をしなくてもよいから。
これらの人は数学の論理がよく理解できた方々なのでしょう。数学は理解できれば記憶に訴えるところの少ない教科であり、反対に理解できないものは記憶に訴えるのだそうです。だから面白くないのです。これは筆者には耳の痛い話です。中学、高校と公式の暗記に汲々としていた自分を思いだします。
「数学に暗記は不要」という話に関連して、面白いエピソードが紹介されていました。大数学者の中には、大変記憶の悪い人がいるそうで、数学者のヒルベルト(1862-1943)は、あるときゼミナールの発表を聞いて、「それは非常にいい仕事だ、だれの発表だ?」と尋ねたら、「あなたの仕事です」と言われたことがあったとか。この数学者は、「新しい仕事をやり始めると、前のことは全部忘れる性質だったらしい」とフォローされていました。
いつもより長いブログになってしまいました。最後に、「数学の成績と記憶力の関係」について調査した研究の結果が紹介されていましたので、それを見ていただこうと思います。
この調査研究は、京都大学で行われたもので、小学校4・6年、中学校の1・3年、高校3年を対象としたもの(何回もお伝えしたように、出典の本自体が30数年前に出版されたものですから、この研究はそれより前のものです)で、各学年の生徒を記憶力テストの結果で優秀群と劣等群の二つに分け、その数学学力テストの結果を平均点で比較したものです。
小学4年から中学1年までは、記憶力の優秀なグループのほうが記憶力の劣るループよりも数学の成績がよいことがわかりました。しかし、中学3年以降は、この傾向が逆になっています。著者は、「中学1年あたりまでは、ある程度記憶力がものを言うが、中学3年以上の数学になると、記憶力がものを言わなくなるのだろう」と述べておられます。
以上から、前出の数学者たちの「数学は記憶力ではない」という言説は概ね真実であることがわかりますね。
※「数学とは何か」の4・5は、次の記事でお伝えします。