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数学とは何か その1

月曜日, 4月 28th, 2014

 このところ、「文士はみな数学嫌いである」と語った作家の言葉に着目し、それが本当かどうかを調べた大学の先生の著作の内容をご紹介しています。

 今回は、この本の著者が「数学とは何か」について、作家や数学者を対象に実施したアンケートの結果を踏まえながらご自身の見解を述べておられるので、それをご紹介してみようと思います。

① 数学は抽象の世界である。

 言うまでもありませんが、数学という科目を特徴づける特性はその抽象性にあります。そこで著者は、「多情多感な作家たちが、この具象的世界から感情や一切の色彩を拭い去った灰色の抽象世界を、どのように見ているかから入ってみよう」と述べ、作家が数学のもつ抽象性ゆえに数学嫌いになった理由を列挙しておられます。

・算数は無味乾燥な気がした。
・カレーライスの中のニンジンや玉ネギのようなもので、体が受けつけなかった。
・人間の匂いがないので面白さを感じなかった。
・夢がない、人間的本質と無関係。
・こんな抽象的な数字のいじくりをなんのためにするのか心外だった。
・文学のように直接人生と交渉がないから。
・情緒に訴える面がなかったためと思う。

 上記以外にも、同じような理由が多数紹介されていました。それから、「数学に対してこのような受け止めかたをする人たちの中には、普通の生徒が何ら抵抗なく受け入れられるような事柄にもひっかかりがちな人がいる」として、次のような子どもの例をあげていました。

20140428b「君の弟が君より四つ少ないとしたら・・・・・・」という問いかけをすると、「ぼくには弟がいない」と答えたり、教師が、甲村から乙村までの道のりが四キロある・・・・・・という問題で、甲、乙を直線で図示すると、あんなまっすぐな道はないのに・・・・・・とひっかかるのである。

 この種の子どもは、「ないものをあると仮定するとか、具体的事物の一属性を取って他を捨てて、抽象化することにつまずきやすい」のだそうです。

 しかしながら、数学の特性として第一に挙げられるべき抽象性が、数学になじめない、数学がわからない原因になる一方で、この抽象性ゆえに独自の美学が存在するのが数学です。そして、幸運にもその美学にシンパシーを感じた人たちは、数学の魅力に引き込まれ、数学を愛してやまない人間になっていくのでしょう。

② 数学は論理体系である。

 著者は、「数学は公理から出発して、厳密な理論によって定理を導き出す理論体系であることも、今さら言うまでもない。そこに数学独特の正確性と堅実性が見られるのだ」とし、こうした数学ならではの論理性に、作家たち、数学者たちが引きつけられた例をあげておられます。

<作家編>
・ごまかしのきかぬ論理の追求が面白かった。
・運算そのものが好きだった。一つの答えを求めて論理的に追求している作業がこころよかった。
・明快な答えがでるから。
・可否明瞭。
<数学者編>

・論理が明快でアイマイさが少ない。
・論理的整合性。
・形式的合理的で頭を使わなくとも、正しい結果が出るから。
・筋が通っていて確信をもって、理解推論できるから。
・その明快さ。
・論理的思考だけで体系を創りあげていくことは、最大の魅力であった。
・論理がすっきりしている。
・正不正がはっきり自分で納得できる。

 以上のような論理性ゆえに数学を嫌いになった作家の言葉も紹介されています。

・数学は一つの回答しかない。作るということがない点がきらい。
・定理というものとか、方程式というものがきまっていたことが、よくわからぬし、気にくわなかった。
・約束を強制するから。
・数学は約束の学問で想像の世界と反対。

 著者は、数学の抽象性や論理性に対してそっぽを向きたがる人も、数学の思考原理は日常生活のなかにあるものを拾い上げたものにほかならないことを知るならば、ことの意外さに驚き、数学を見直すのではないだろうか」と述べ、有名な数学の権威の言葉を引用しながら、数学が現実の世界をかけ離れた世界を扱った学問ではないことを説明しています。

 たとえば、近代統計学で威力を発揮しているサンプリングの原理も、わが国で昔から行われている料理の味見をするときの「よくかき混ぜてから、一さじすくってなめてみる」ことにほかならないこと。現代抽象代数学の基本概念の一つである「構造」は、スポーツの試合に見られる三チームの勝負が「三すくみ」の関係になる場合であること。「群」の概念は、スイカの中身を調べるのに、立ち割ってみる方法と、叩いてみる打診法とがあるが、「群」はその打診法のようなものであることなどが紹介されていました。

③ 数学は記憶ではない。

 数学者を対象としたアンケートにおいては、数学好きだった理由に「記憶しなくてよかったから」というのがかなりあったそうです。回答例を挙げてみましょう。

・暗記不要なので。
・記憶することが少なくてすんだから。
・丸暗記でなく一つの法則から多くの結果が理解されるから。
・記載的事実を覚える量が少なくてすむから。
・丸暗記をしなくてもよいから。

 これらの人は数学の論理がよく理解できた方々なのでしょう。数学は理解できれば記憶に訴えるところの少ない教科であり、反対に理解できないものは記憶に訴えるのだそうです。だから面白くないのです。これは筆者には耳の痛い話です。中学、高校と公式の暗記に汲々としていた自分を思いだします。

 「数学に暗記は不要」という話に関連して、面白いエピソードが紹介されていました。大数学者の中には、大変記憶の悪い人がいるそうで、数学者のヒルベルト(1862-1943)は、あるときゼミナールの発表を聞いて、「それは非常にいい仕事だ、だれの発表だ?」と尋ねたら、「あなたの仕事です」と言われたことがあったとか。この数学者は、「新しい仕事をやり始めると、前のことは全部忘れる性質だったらしい」とフォローされていました。

 いつもより長いブログになってしまいました。最後に、「数学の成績と記憶力の関係」について調査した研究の結果が紹介されていましたので、それを見ていただこうと思います。

 この調査研究は、京都大学で行われたもので、小学校4・6年、中学校の1・3年、高校3年を対象としたもの(何回もお伝えしたように、出典の本自体が30数年前に出版されたものですから、この研究はそれより前のものです)で、各学年の生徒を記憶力テストの結果で優秀群と劣等群の二つに分け、その数学学力テストの結果を平均点で比較したものです。

20140428a

 

 

 小学4年から中学1年までは、記憶力の優秀なグループのほうが記憶力の劣るループよりも数学の成績がよいことがわかりました。しかし、中学3年以降は、この傾向が逆になっています。著者は、「中学1年あたりまでは、ある程度記憶力がものを言うが、中学3年以上の数学になると、記憶力がものを言わなくなるのだろう」と述べておられます。

 以上から、前出の数学者たちの「数学は記憶力ではない」という言説は概ね真実であることがわかりますね。

※「数学とは何か」の4・5は、次の記事でお伝えします。

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家庭学の先生は年輩者が多い?

木曜日, 4月 24th, 2014

 今週月曜日、このブログの累計閲覧数が60万件を超えました。2008年11月に開始して5年数ヶ月になりますが、このような地味な内容のブログにかくもたくさんの方々が目を向けてくださったことに、心より感謝申し上げる次第です。弊社の保護者の方々の他、様々な方々が読んでくださっていることを人伝に耳にしておりますが、少しでもお役に立っているならこれ以上の喜びはありません。

 さて、今回の話題です。みなさんは、 “進学塾”の先生にどんなイメージをもっておられるでしょうか? 風貌、物腰や雰囲気、服装、年齢、男女比など、何か特別なイメージをおもちでしょうか。

 ときどき、「家庭学習社の先生は、~」「家庭学の先生って、~」といった言いかたで、弊社の指導担当者に対する感想を保護者がおっしゃることがあります。お褒めの言葉もありますが、若干苦言のニュアンスの指摘を受けることもあります。

 あるとき、こんなことを言われました。「おたくの先生って、こう言っちゃ失礼かもしれませんが、年輩の人が多いですよね。でも、そのほうが親としては安心できるんですよね」――これは、よい意味に受け取っていいのでしょうか。筆者は、性格のせいか言葉を割と額面通りに受け止めています。実は、「家庭学習研究社の先生」という話題で筆者が一番多く耳にするのは「年輩者が多い」という指摘です。

 それは、一般的に「進学塾の先生には若い人が多い」というイメージがあるからかもしれません。おそらく、塾の先生が夜遅くまで働く仕事であり、ましてや厳しい受験に勝ち残るために通う進学塾ともなると、先生にはアグレッシブな指導や体力が不可欠の要素として求められるという側面もあるでしょう。それで、「若い人でないともたない職業」というイメージが形成されているのかもしれません。

 さて、家庭学習研究社の先生は実際のところどうなのでしょう。まず、6つある校舎の責任者の年齢ですが、一番の高齢者は既に60歳に達しています。一番若い責任者で43~44歳。うーん、改めて思いますが、学習塾としては異例なほどの年長者集団です。因みに勤続年数ですが、30年以上の者が2人いて、一番少ない者で17~18年です。

 無論、指導の現場に立つ者は校舎の責任者以外に多数います。一般の指導担当者の年齢はと言うと、これも決して若くはありません。無論20代もいますが、30代40代が中心でしょうか。50歳以上の者も結構います。

 なぜ体力勝負の厳しい世界の中で、弊社の先生だけ(筆者の誤解かもしれませんが)年齢が高くてもやっていけるのか。それは、40数年前の発足期からの経営者の考えが伝統として受け継がれているからではないかと思います。

 たとえば、「時間や労力を頼みにするような指導をするな」「専門性を磨け」「いくら指導をする者が汗を流して必死でも、子どもを必死にしていなければ何の意味もない」「授業は、指導する側の満足のためにあるのではない。授業を受ける子どもが知的な喜びを味わい、満足するためにあるものだ」などの教えです。

 こうした教えの根本にあるのが、「自学自習のできる子どもの育成」という指導方針です。ふだんの授業を通して「勉強のおもしろさにふれる体験」「理詰めで解き明かす楽しさを体感する体験」「勉強の方法や段取りを学ぶ体験」を提供し、それによって「自ら学ぶ姿勢」・「自分で学ぶ術(すべ)」を一人ひとりの子どもが身につけるよう導くのです。

 こうした方針に基づいた授業は、自ずとぐいぐい子どもを引っ張るスタイルの授業、入試やテストに出る重要事項の暗記をさせる指導とは一線を画すものになっていきます。子どもたちに語りかけ、単元の基本となる重要な事柄について一緒に考え、大切な考えの切り口を子ども自身に発見させるような授業の実践を心かげるようになります。これが、「パンチはないが、穏やかな家庭学の先生」のイメージを形成しているのだろうと思います。

 こうした授業手法を完璧に実践できればよいのですが、そうそううまく行くわけではありません。単元によっては、子どもたちの興味を惹くのが困難な場合もあります。しかし、前述のような指導で成果をあげようと心がければ、次第に授業の技量も上がっていきます。その結果、体力は若いころのようにはなくても、十分に指導現場を任せられる先生に成長していけるのです。

 保護者の方々はお腹立ちになるかもしれませんが、かつて弊社の経営者は私たち指導現場に立つ者に、次のようなことを言っていました。「きみたちは保護者の方々にもっと感謝しなければならない。わざわざお金を払って、私たちに生きがいの種を寄こしてくださっているのだ。十分な指導ができなかったら、己の未熟を反省し、次の子どもたちの指導でお返しをしなさい」と。

 昨年の12月、筆者は入会予定の家庭、入会を検討されている家庭向けの「説明会」で、保護者に話をする機会がありました。すると、説明会の終了後に書いていただいたアンケートに、「30年前に先生の授業を受けました~」というおかあさんのコメントがありました(正確には、27年ぐらい前だと思います)。そのかたのお名前を見て、未熟者だった自分の授業を一生懸命に受けてくれていた彼女たちのことをいろいろ思いだし、有り難いやら申し訳ないやらで、しばらく言いようのない感慨に襲われました。

 今、筆者は広報の仕事ともう一つ大きな仕事を引き受けているため指導現場を離れていますが、前述のような経営者の言葉を指導現場にいる者全員が受け継ぎ、家庭学習研究社のめざす指導のよき実践者になってもらいたいと心から願っています。進学塾が、「若くなければもたない職場」ではなく、「年と経験を経るほどに人生が充実する職場」になれば、塾で学ぶ子どもたちも様々な恩恵に浴することができるでしょう。より質の高い指導が受けられるのですから。

 20140424学習塾は、学校と違って「学力形成」に特化した場所です。だからこそ、学習塾の先生は、「学習指導」の真のスペシャリストであらねばなりません。また、入試に受かるための学力にとどまらず、真の学力が身につくような指導を実践すべきです。それが保護者の期待に他ならないのですから。弊社の指導担当者には、常に自分の技量に満足せず、真摯に仕事に向き合い、そして勉強を怠らず、子どもたちの望ましい成長に資する学習指導の実践者になってほしいと願っています。

 もし、指導現場に立つ者がそれをめざすなら、5年や10年程度で一人前の先生になれたと思えるはずがありません。「家庭学習研究社に通ったら、子どもの学習姿勢が変わった」と、全ての家庭に認めてもらえるレベルをめざして、何歳になっても努力を重ねていかねばなりません。

  このことは、弊社の指導担当者に限らず、全ての学習塾の先生にも当てはまると思います。一人ひとりの先生が、常に向上心を失うことなく指導力を高める努力を続けていけば、子どもたちにとってかけがえのない存在になります。それがその先生の存在価値を高め、所属する学習塾の評価にもつながり、ひいては学習塾全体のステイタス向上にも貢献していくことでしょう。

 保護者の方々に「おたくは年輩の先生が多い」という指摘をいただくことが真の誇りになるよう、指導担当者一同がんばってまいりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。

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数学が好きな理由・嫌いな理由

月曜日, 4月 21st, 2014

 前回、数学が嫌いである、もしくは苦手とした作家、数学が好きである、もしくは得意だった作家について調べた本のことをご紹介しました。

 この本は、数学の得意不得意は遺伝によるものかどうかということと、作家の伊藤整(故人)が「ほとんどの文士は数学が不得意である」と語った話が本当かどうかということ、この二つのテーマに基づいて書かれたものです。著者は、大学で学習心理学を教えている先生です。ただし、30数年前に出版された本であり、調査対象の作家のほとんどが明治・大正生まれです(全員故人)。

 ともあれ、作家はみな数学が苦手だという話の真偽については、筆者ならずとも興味をもたれることでしょう。前回は、この本の著者が資料で調べた結果をご紹介しましたが、確かに数学を苦手とした作家が多いのは事実のようです。しかし、数学を得意にした作家も少なくなかったことが判明しました。

 そこで、今回はこの本の著者が当時の現役の作家にアンケートを依頼し(655名)、回答のあった作家(346名)から得た情報のうち、「自分の数学好き(数学嫌い)は、生まれつきのもの」と思っている作家の見解をまとめたものをご紹介してみます。なお、この回答は小学生時代を思い出してのものです。

●数学好き・数学得意は「生まれつき」という回答の例
・素質があったから。(S・Y、明治生まれ)
・性格にあった。(F・I、明治生まれ)
・頭の働きを試すようで面白かった。(M・K、昭和生まれ)
・問題を解くのが面白くよく解けた。(T・A、明治生まれ)
・どの学科も満点。(T・U、明治生まれ)
・予習復習しなくてもよくわかってできた。(S・O、明治生まれ)
・小学4年生で6年生の教科書を解いていた。(R・Y、大正生まれ)
・素質的なものではないかと思う。(K・K、明治生まれ)
・考えることが好きだった。(D・H、明治生まれ)
・いつも90~100点をとった。(S・K、大正生まれ)
・特に努力する必要なし。(T・N、昭和生まれ)
・非常に好きで問題を解くのが面白い。(S・I、明治生まれ)
・算数は得意で少しも抵抗を感ぜず。(R・H、大正生まれ)

●数学嫌い・数学苦手は「生まれつき」という回答の例
・数学の好き嫌いは教育以前に、生まれながらの素質によると思う。(H・H、明治生まれ)
・先天的に数の概念が欠けているらしい。(S・M、明治生まれ)
・先天的に数に弱いのは女性の特徴。(M・O、大正生まれ)
・娘(小4)も算数嫌い。遺伝ではなかろうか。(N・K、大正生まれ)
・生来の数学嫌いもあるかもしれん。記憶力は悪い方ではないが、数学的記憶はよくない。四人の子どもも数学不得意。(S・H、昭和生ま  れ)
・数の取扱い苦手、記憶力に自信なし。(G・U、大正生まれ)
・基礎をしっかり身につける作業を好まず、現実からはなれた物事に心をひかれる性質のため。(S・K、明治生まれ)
・生来情緒的、そのため文学に入った。(S・F、大正生まれ)
・ものごとを論理的でなく、感覚的にとらえる習癖。(G・U、大正生まれ)
・覚える意志なく、覚えようともしなかった。(T・H、明治生まれ)
・計算が嫌い、練習が嫌だった。計算を間違える。計算は気が遠くなる。(S・Y、大正生まれ)
・柱時計のアラビア数字が読めず、小学途中まで時間がよくわからず、自然、数学に親しめなかった。(N・H、明治生まれ)

 数学が「嫌いでできない」理由としては、生まれつきの才能に言及する回答の他、性格面を理由に挙げている作家が多いようです。こちらのほうが、「才能がなかった」よりも理屈っぽい根拠をあげている点が面白いですね。「才能がない」は、それ以上突っ込みようがありませんが、性格が理由ならその作家特有の表現がいくらでもできるのでしょう。

 作家へのアンケートの結果、数学嫌いの作家は確かに多いけれども、数学が好きな作家もかなりの数にのぼることが判明しました。よって、「文士のほとんどは数学不得手である」という伊藤整の発言はどうやら誤りだったようです。ただし、こんな話もあります。アンケートの実施にあたり、2、3の作家から、「文学者は数学に対してコンプレックスをもっておって、虚勢を張る場合があるから、回答の分析は慎重にするように」という警告があったというのです。この本の著者は、「虚勢の有無の判断はできかねたので、特に分析にあたって手心を加えることはしなかった」そうです。

 さて、この本の著者は、作家に対して実施したのと同様のアンケートを当時の数学者にもしています。アンケートを送付した数学者の数は722名で、回答数は405名(回収率56.1%)でした。このアンケートの結果で今回ご紹介するのは、「数学の好き嫌いの原因は、生まれつきの素質と思うか、教師の指導によるものと思うか」についての回答結果です。

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 数学者の見解は、「先天的素質」と「教師の指導」と「二つのファクターの双方」の三つがほぼ均等に分かれました。なお、数学が好きになった(嫌いになった)理由を尋ねるアンケートは数学者にも行われたのですが、「自分の数学好きは、生まれつきよくできたからだ」と答えている数学者のグループは、小説家よりも「自分で問題をつくるのが楽しかった」「独自学習ができた」「学年を越えて進んだ」「教師は必要なかった」など、先天的素質を匂わせる表現がより顕著に見られたそうです。

  ただし、数学の好き嫌いの原因については学者の見解が必ずしも正しいとは限りません。そこで、著者は「数学の才能と遺伝との関係」についてさらに論を進めています。

 このブログをお読みいただいているかたの多くは、小学生の子どもをおもちの保護者であろうと思います。親としては、「数学は才能で決まる」という結論よりも、教師の影響や、学ぶ環境、学ぶ方法など、どの子どもにも可能性の残されるファクターの及ぼす影響についてお知りになりたいのではないかと思います。

 機会があったら、そうした方面での著者の見解をご紹介してみようと思います。興味をおもちでしたら、是非読んでみてください。

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数学が好きな作家、嫌いな作家

木曜日, 4月 17th, 2014

 ある日、久しぶりに古本屋へ行って「おもしろそうな本はないか」と物色していたところ、乱雑に平台に並べられた本の中の一冊に目が留まりました。

 その本は、数学が嫌いになる理由について書かれたもののようでした。それだけでは購入の動機にはならないのですが、表紙には数学の劣等生だった何人かの有名な作家のことが、裏表紙には同じように数学が得意だった小説家のことがコンパクトに紹介されていました。そこで手にとって内容を点検し、「これはめったにお目にかかれない本だぞ」と思い、買って帰ることにしました。20140417

 著者は某国立大学の教授(学習心理学)で、数学の教師の経験をもつ人物でした。この本は、「数学嫌いは素質的なものか」という問題と、「作家はみな数学が不得意なのかどうか」という問題を扱ったものでした。後者のテーマは、作家の伊藤整(故人)が「ほとんどの文士は数学が不得意である」と述べていることに着目し、「果たして本当かどうか調べてみたい」と思ったのがきっかけのようです。

 以下、早速数学が嫌いな作家、好きな作家に関する著述をご紹介してみましょう。なお、この本はかれこれ30数年前に出版されており、取り上げられているのは明治~昭和後期までの作家です。調査した作家は、全員故人であることを予めお断りしておきます。また、今回ご紹介するのは本に取り上げられている人物の一部です(なるべく知名度の高い作家を選びました)。

●数学が不得意な作家

<夏目漱石> 駿河台の成立学舎に通ったころ、テキストが原書のためもあったが、英語に苦しんだ。また数学にも苦しめられた。大学予備門に入ってからも、英語と数学に苦しめられ、成績は下がる一方で、予科三年のとき落第した。(「評伝、夏目漱石」荒正人著)

<正岡子規> 予備門に入学してから、最も困ったのは数学であった。数学の時間に教師は英語で説明した。それがわからなくて非常にむずかしかった。つまり、数学と英語の二つの敵を一時に引き受けたため、学年試験に幾何で落第した。 (「子規全集第八巻」)

<石川啄木> 盛岡中学三年ごろから文学書を読みふけり、学業をかえりみなかったので、学業中、特に数学のようなものは全く理解しなかった。 (「作家論」伊藤整著)

<北原白秋> 十五歳の時、旧制中学三年進級の際、幾何の成績が悪く原級にとどまる。 (「明治文学全集74  明治反自然主義派」)

<長与善郎> 小学校時代は他の教科は何でもなかったが、数学だけはへんに苦手で、学習院の初等科から中等科へ移る時、七番の席次を占めながら、算術の点だけが悪いため落第した。長与家は世に知られた秀才ぞろいであって、父親はいつも「大事なのは数学だ」と言っていたが、数学はどうしても考えが集中せず、つい他のことを考えてしまうのだった。 (「わが心の遍歴」長与善郎著)

<林芙美子> 学科のなかでは数学が不得手で、国語、地歴がよくできた。後に、日本橋の株屋の事務員になったが、複雑な数字の帳簿つけをさせられ、数学の下手な彼女は一日で断られた。 (「婦人作家伝」板垣直子著)

<高見順> 旧制中学時代、幾何の点や線の定義に苦しんだがそれについて彼は、「自分の実感的経験が所有的理解にまでならないためではないか、それは具体的な物事のその本質に対する抽象的認識力、すなわち抽象的思考の弱さの故だ」と言っている。 (「国文学、解釈と鑑賞」)

<石坂洋次郎> 大正二年弘前中学に入学したが、補欠入学。学科では、数学、物理、化学、英語、習字が不得意であった。 (「日本文学全集、石坂洋次郎」

<井上靖> 旧制高校時代は理科の学生だったが、自分が全く科学方面に向いていないことを知った。物理も化学もそれを理解する上に必要な根本的な何かが欠けていると考え、大学は、理科系の者にも門を開いていた九大の法文学部に入った。 (「日本の文学、井上靖」)

<小林秀雄> 小学校以来の友人雀部利三郎の回想によると、英語と国語はズバぬけてできたが、数学は不得意であった。父は東京高等工業(今の東京工大)の数学教授であった。 (「最後の神様、小林秀雄」草柳大蔵著)

 ●数学が得意な作家

<幸田露伴> 九歳で小学校に入り、成績極めて優秀で、最も得意な学科は算術であった。数学は小学、中学を通じて最も成績がよかった。後に、電信修技学校に入ったが、ここでも、数学が得意で、与えられる問題が容易すぎたという。 (「幸田露伴」塩谷賛著)

<与謝野晶子> 女学校時代の晶子は帳場格子の中で、帳簿つけをしながら、父の蔵書、中でも日本の古典を好んで読んだ。学科では作文と数学が好きで、特に代数が得意であったが、裁縫や家事など苦手だったので、成績はいつも中位だった。 (「与謝野晶子書誌」入江春行著)

<堀辰雄> 東京府立三中時代は数学を好み、蘆花、藤村、鏡花などの小説を読んだ他は、あまり文学書に親しまなかった。中学四年終了で一高理科乙類に入った。理乙はドイツ語であるが、彼はフランス語も独学して、英仏独の書物を自由に渉猟することができた。しかし、肝心の数学、物理などから次第に遠ざかって文学のほうに向かい、大学は国文科に入学した。(「日本文学全集、堀辰雄集」)

<安部公房> 奉天中学時代、世界文学全集を耽読した。学科では語学が苦手であったが、数学を得意とし、昆虫採集、構成派風の図案をかくことが好きだった。 (「日本の文学73、安部公房」)

<大岡昇平> 数学が好きで、中学三年まで級でトップにいた。代数より幾何が好きであったが、解析に入ると(当時は代数の延長のようなものであった)代数も面白くなった。しかし、高等学校の三次方程式の解法や微積になると面倒になったけれども、数学についての関心は強く、後で、『文科の数学』やガウスの群論などを読んだ。(本人からのアンケート回答)

<北杜夫> 小学一年のとき、先生から「君は算術の神様だ」といわれた。旧制中学時代も数学が好きで、四年頃ある数学の先生が毎時間模擬問題を黒板に書いて、一番早く解いた者に、黒板に解答を書かせたが、黒板に出て行く常連三人の一人であった。(「どくとるマンボウ小辞典」、北杜夫著)

 数学が嫌いな作家のうち、漱石や子規の場合は英語で数学の授業が行われたことも多分に影響していると著者は述べています。

 この本の著者は、作家の数学に対する「好き」「嫌い」を調査するにあたり、文芸年鑑に登録されている作家全員(655名)にアンケートを実施し、「最も好きだった科目」「全般的学業成績」「数学教育に対する意見」を尋ねています。回答数は364(52.8%)だったと報告されています。これは、新聞社の実施する一般的な世論調査の回答率よりもやや高いそうです。作家って、意外と律儀で几帳面な人が多いのでしょうか。それとも、ユニークな企画が小説家の好奇心を刺激したのでしょうか。

 次回は、作家が答えた「数学嫌いの理由、数学好きの理由」をピックアップしてご紹介しようと思います。ただし、このブログの趣旨に添い、最終的には子どもたちの数学力の形成に役立つ話にまとめていけたらと考えています。いつもと違った毛色の記事なので、戸惑っているかたもおられるかもしれませんが、あと2~3回おつきあいいただければ幸いです。

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仮想面談で考える子どもの“やる気”問題

月曜日, 4月 14th, 2014

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 以上は、「子どもにやる気がない」という問題を扱った、面談シミュレーションを書いたものです(こんなに冷静な面談担当者はいないかもしれませんが)。ある本をヒントに考えたのですが、これに似たような相談は相当数にのぼります。また、このブログの検索キーワードで図抜けて多いのが「やる気」であり、「わが子にもっとやる気を!」と願っておられるかたと、一緒にこの問題を考えてみようと思い立ちました。

 結論を先に言うと、お子さんにやる気がないのではありません。ある本に、「わが子が何度言ってもやろうとしない。やる気がないと嘆くなら、自分の子どもの頃を思い出すべきだ。自分は、親に2~3度注意されただけで態度を改めただろうか」という記述がありました。

 親が子どものことを黙って見ていられず、次々と矢継ぎ早に注意と叱責の言葉をまくし立てる。それが繰り返されると、やがて子どもは親の真意を受け止めようとする姿勢を放棄し、親の望みとは裏腹なことばかりするようになりがちです。

 親がまずもって念頭に置くべきは、「自分だって、子どもの頃親の注意や小言にうんざりしたものだ。親の心配やイライラを口にすると逆効果を招くだけだ」という認識です。そして、同じ接しかたをいつまでも繰り返さないことです。まずは、「勉強はイヤだ」「もっと遊びたい」と子どもが思うのは普通のことなのだを受け止め、そのうえで子どもが望ましい行動の選択をするよう働きかけるべきではないでしょうか。

 このような流れを築くための第一歩。それは、毎日の家庭の会話から改善することだと思います。たいていの親は、子どもの望ましくない状態を目の当たりにすると、子どもをコントロールしようという衝動に駆られます。それはたちまち子どもに伝わり、親の期待とは逆の行動へと走らせてしまいます。

 「親の話は注意と小言ばかり」--子どもがそう思ってしまうと、どんな働きかけも功を奏しません。まずは、親子の会話の時間を小言や叱責、強制とは無縁の楽しいものにし、親の愛情を伝えるためのひとときにすべきではないでしょうか。親への尊敬や信頼の気持ちなしに、子どもは親の言うとおりにしようとは思わないものです。

 こうした楽しい会話を基本としたうえで留意したいのは、学校の宿題や塾の勉強など、子どもにやってほしいことに関しては、「どうしたらいいと思う?」「いつやったらいいと思う?」など、子どもに行動の選択をさせるように話しかけることです。親の考えを初めから言うと、「押しつけられている」と子どもは察知してしまいます。何ごとにつけ、子どもが自分で行動の選択をするよう働きかけることから、自発的な行動姿勢の芽は育つのだと言われます。

 子どもも、勉強の大切さについては十分理解しています。ただし、「遊びたい」という子どもの気持ちを受け止めてやることも必要でしょう。また、人間の常として、遊んでから勉強というのは成り立り難いものです。逆に、「勉強したら、そのあとは自由な時間がある」なら、子どもは勉強を受け入れるでしょう。20140414b

 「どうしたらいいと思う?」という働きかけのなかに、そういう選択肢を設けるのも効果があるかもしれません。子どもも小学校の中学年ぐらいになると、押しつけを極端に嫌うようになることがあります。親からの一方的押しつけにならないよう配慮し、子どもが自分で判断し、遊ぶことと勉強することのけじめをつけるように導くことが重要だと思います。

 やがて入試が近づいてくると、ほとんどの子どもは真剣に受験のことを考えるようになります。そういう日が来るのが少し遅いか早いかで、入試の結果が明暗を分けることも少なくありません。

 親としては気を揉むところですが、焦ってしまうと悪循環を招くだけです。日常会話を通して親子関係を少しずつ改善し、子どもの意志を尊重するような投げかけを心がけ、自発的に勉強に取り組むような流れができるよう導くのです。そのほうが、結果として親の思いを押しつけるよりもはるかに子どもはやるべきことを自分で考えて行動するようになるものです。受験のサポートは、相手が小学生だけにまさに子育ての一側面であり、“忍耐”なしにはできないことです。

 なお、やる気に関してはこれまでもいろいろ書いてきました。親子関係、親の性格、お子さんの性格、家庭のライフスタイル、親のしつけに対する考えかたや姿勢など、効果のある方法を決定づける要素は様々にあり、どの家庭にも効果のある方法というものは見つからないものです。

 子どもが親の期待に沿った行動を選択するための前提条件は、親の愛情がしっかりと子どもに伝わること。そこを間違えないようにしたうえで、お子さんのやる気と奮起を促す方法を辛抱強く見つけ出していただきたいと存じます。

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