2014 年 7 月 7 日 のアーカイブ

家庭の言葉と子どもの知力の相関関係 その1

2014 年 7 月 7 日 月曜日

 人間の能力、適性、性格などを決定づけるうえで大きな作用を果たすのは、日常で繰り返し行っていること、長い時間をかけてしていることだと言われます。

 これに当てはまるのは何でしょうか。家庭での会話、食事、睡眠などでしょうか。これらは、人生を通してほぼ毎日繰り返しますし、かける時間も膨大なものです。幼児期~児童期は、人間形成の途上にありますから、これらが及ぼす影響がいかに大きいかは想像に難くありません。

 会話、食事、睡眠、いずれもすでに話題に取り上げたことがありますが、今回は会話、特に「家庭の言語活動」のもつ重要性について書いてみようと思います。

 小学校入学まで、子どもにとっての「言葉」は日常生活で交わす言葉を意味します。それ以外の言葉はほとんど知りません。では、「それ以外の言葉」とはどんな言葉でしょうか。たとえば、学校で先生が使用し、子どもたちにも使用することが求められる言葉がそれにあたるでしょう。つまり公の教育の場で用いられる言葉です。

 家庭で身につけた言葉(話し言葉)と、教育の場で使用される言葉(フォーマルな言語)のギャップが少なければ、子どもは違和感なく授業を受け、学習の成果をあげられることでしょう。しかし、現実には家庭で用いられる言葉と教育の場で用いられる言葉は同じではありません。また、同じにはなり得ません。

 学校では、「ボクは、~だと思います」「わたしも、○○さんの意見に賛成です」などのような言葉遣いが求められます。いわゆる「ですます調」の丁寧な言い回しで、誰が聞いてもわかるし、その場にいない人が聞いてもわかるフォーマルな言葉遣いが基本となります。

 一方、家庭内で気心の知れた家族と交わす言葉はどうでしょうか。もし、お子さんが突然「おかあさん、今日はよい天気ですね」「おかあさん、わたしの考えもあなたと同じです」などと言い始めたら、おかあさんはびっくり仰天し、「いったいどうしたの?」と、首をかしげてしまわれることでしょう。

 なぜこうした違いが生じるのかについては、ここでわざわざ説明する必要はないかもしれません。家庭での会話は、血縁で結ばれた家族という構成員間で行われます。毎日生活を共にしている人間同士ですから、言葉を尽くして説明しなくてもわかり合うことができます。また、常に一対一もしくはそれに近い形式で会話を交わすのですから、身振り手振りや表情もコミュニケーションをサポートしてくれます。必然、言葉は簡略になります。ですから、家庭内の言葉と学校という教育の場で使用される言葉とが違ってくるのは、至極当然の成り行きと言えるでしょう。

 問題は、家庭で普段用いられる言葉とは異質な言葉、大勢の人が一緒にいるときにコミュニケーションの手段として使用される言葉、より具体的には「敬語を適切に用いた言葉」にふれる経験を子どもがし、そういう言葉が使用される場面で理解することができ、自分も使えるかどうか。この差が、子どもの学力形成や知的能力の獲得に少なからぬ影響を及ぼすのです。家庭でフォーマルな言語を授けられないまま小学校に入学した子どもは、大概勉強で苦労を強いられることになりがちです。

 この記事をお読みになっているかたの大半は、もっと上の学年になったお子さんの保護者であろうと思います。しかしながら、そういう方々にとっても、大いに参考にしていただけることだと思って今回は話題に取り上げた次第です。

 「でも、うちの子はもう5年生です。今さら家庭での会話がどうのこうのと言われても変えようがありません」とおっしゃるかたもおありでしょう。しかし、お子さんは大人と比べてまだ吸収力に富んだ年齢にありますし、親が家庭内の言葉の重要性を踏まえて会話の時間に相応の配慮をすれば、お子さんの今後もずいぶん違ってくるのではないでしょうか。また、何歳であろうと家庭で交わす言葉はお子さんの人となりを周囲がどう判断するかに大きな影響を及ぼしますから、重要性は少しも変わりません。

 家庭での言語使用状況と子どもの知的能力に、高い相関関係があることを発表し、教育界に大きな影響を与えた学者がいます。ロンドン大学のバーンステイン教授です。

20140707a バーンステイン教授は、イギリスの下流階級の子どもが総じて学力的に恵まれず、低学歴のまま親と同じように貧乏な人生を送りがちであるのに対し、中流家庭の子どもは総じて高学歴で、大人になってからも高収入を得る傾向が強いことを受け、その原因を調べるための大がかりな調査・研究を行いました。そして、こうした階層間格差を生み出すのが、「家庭で使用される言語の質の違い」だと結論づけました。

 この説の趣旨を簡単に言うと、「日常生活における話し言葉には、それを共有している人のなかで暗黙のルールのようなもの(言語コード)が存在する」ということです。ミドルクラスの家庭で用いられる言葉は学問との親和性が高く、複雑な事象や考えを周囲の人間に伝えるのに適しています(精密コード)。いっぽう、ワーキングクラスの家庭で多く見られる、親しい間柄でのみ通用する省略の多い言葉遣いは、複雑な事象や考えの伝達には向きません(限定コード)。このような言葉の使用状況の違いが、階層間の格差を決定づけている」というのです。

 バーンステイン教授の「言語コード論」が発表されてから、すでに30数年以上経過していますが、今日においても世界中のに教育関係者に大きな影響を与えています。筆者自身、教育学者、教育社会学者、社会学者の書物で何度となくこの説が紹介されているのを目にしたことがあります。

 まだまだ続きが長くなりそうです。とりあえず今回はこれで終わり、次回は「精密コード」と「限定コード」の違いを具体的に比較したうえで、子どもの知的能力を高めるための大人の働きかけについて考えてみたいと思います。

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カテゴリー: 勉強について, 家庭での教育