非言語的コミュニケーションのもつ力 その1

2020 年 3 月 30 日

 人間は、言葉を介して思いを伝え合える動物です。しかも、音声と文字という二つの異なる性質の言語を使います。しかしながら、コミュニケーションの方法は言葉だけではありません。むしろ、言葉を交えないコミュニケーションのほうが互いの意思を有効に伝え合える場合もあります。今回は、非言語的なコミュニケーションが子どもの育ちや能力形成に及ぼす影響について考えてみたいと思います。

 1904年の夏の終わり、ニューヨークタイムズ紙に驚くべき記事が掲載されました。小学校3年生並みの算数ができる馬がドイツにいるというのです。クレバー・ハンスと名づけられたこの馬は、オーナーのオステン氏(ギムナジウムの元数学教師)から約4年間にわたって教育を受け、出された算数課題に右足の蹄を踏み鳴らして正解を示す(その回数で答える)というのです。たとえば、今は何時か、今日は何曜日かなどの質問に答えたり、足し算をしたり、割り算の余りを答えたり、といった具合です。

 クレバー・ハンスはほんとうに算数の問題を理解して解けたのでしょうか。この話はかなり知られていますので、実際のところをご存知のかたもおられることでしょう。もしご存知でなかったなら、「真相はどういうことか」を考えてみてください。なお、飼い主はハンスに施した教育の様子を誰にでも見せていましたし、見物料もとっていませんでした。そして、自分が教えた成果として、ハンスが算数のできる馬になったのだと固く信じていました。

 算数ができる馬の存在はやがて広く知られるところとなり、「この馬はほんとうに算数ができるのか」についての議論が高まりました。そこで事実を究明するための委員会が設置され、大掛かりな調査が進められました。しかし、結論は「見物人をだますようなトリックは何もなかった」というものでした。調査に関わった一人の委員は、「馬の好物を与えて意欲を引き出し、調教をくり返すことで算数の問題を解けるようにしたのだろう」という見解を示しました。

 無論、これで納得する人ばかりではありません。ついには心理学者まで真相解明に乗り出し、オステン氏の協力を取りつけたうえで、様々な実験を試みては算数ができる馬のなぞ解きを試みました。そして、ついに真相をつきとめることに成功しました。すなわち、「馬は算数の問題を理解して解いていたのではなく、質問者が発している無意識の合図に反応していたのだ」というのです。

 問題を出したあと、質問者は馬に足を踏み鳴らすよう促します。それに反応して、馬が一つ、二つと足を踏み鳴らしていきますが、やがて正解の数にたどり着いた瞬間に生じるかすかな身振りの変化が、踏み鳴らしをやめさせる合図になっていたのでした。その場に居合わせた人の誰もが気づかないレベルで生じていた筋運動に、馬は敏感に反応していたのです。

 遅ればせながら、今回の話題はレナード・ムロディナウ氏の著書「しらずしらず」(ダイヤモンド社)から拝借しています。以下でお伝えすることも、この本の内容をもとにして書いていることを予め伝えしておきます。

 動物は人間のように言葉を理解したり操ったりすることはできません。そのかわり、人間の発する非言語的なシグナルには敏感に反応します。前述のクレバー・ハンスのエピソードでもわかるように、人間が意図的に示したわけではない合図(しぐさや表情、かすかな動き、声の抑揚など)も逃すことなく察知し、反応する鋭敏なセンサーをもっています。したがって、人間が動物に何らかの働きかけをしたとき、動物は常に人間の側から発せられる非言語的な合図を感じ取っている可能性が高いと言えるでしょう。

 そのことを裏づける有名な話があります。大学の研究生に、ラットを使った学習の訓練をさせる実験が行われました(実験の詳しい内容は、本記事の趣旨とは異なりますので省きます)。訓練の内容は、T字型の迷路を用意し、5匹のラットに餌がもらえるルート(Tの字の横棒の右側を辿るか、それとも左側を辿るか)を覚えさせるというものでした。それを1日10回繰り返すよう指示しました。ただし、ラットは5匹ずつに分けられ、片方のグループは「迷路を探検できる賢いラットだ」と伝え、もう一方は「方向感覚をもたないラットだ」と伝えていました。学生に先入観を与え、それが実験の結果にどう影響するか調べることを意図したもので、実際には二つのグループのラットに違いはありませんでした。

 さて、ラットの訓練結果に何らかの差があったでしょうか。大いにあったのです。学生が「迷路を探索する天才だ」と思い込んでいたラットのグループは、迷路を辿って餌にありつくことがうまくできるようになっていました。ところが、「方向感覚がない」と思い込んでいたラットの訓練結果はよくありませんでした。学生の思い込みが、訓練をするときの態度に違いをもたらしたのです。すなわち、「能力が高い」と思ったラットには手厚く優しく辛抱強く訓練を施したのに対し、「能力がない」と思ったラットには機械的な訓練しかしていなかったのです。

 では、ラットへの扱いが同じだった場合はどうなるのでしょうか。同種の実験をし、その際に「二グループへの接しかたに違いがあったら、正確な実験データが得られない」と学生に警告し、まったく同じ訓練をするよう徹底させました。ところが、結果は変わりませんでした。「頭がよいラットだ」と思っていたほうのグループの成績がよかったのです。学生は意識の上では公平に扱おうとしました。しかし、ラットに対する期待の違いが表面的な行動とは別のシグナルを送っていたのでしょう。それにラットは反応したのです。

 以上のことは人間にも当てはまるのでしょうか。親のわが子への評価や予想(「できる子か、できない子か」など)は、子どもの能力形成や育ちに何らかの影響を及ぼすのでしょうか。今回の参考文献には、このことにも言及されていましたので、次回ご紹介してみようと思います。また、この話題を土台にして、弊社の会員家庭の保護者の子育てや学習の見守りと応援について、参考にしていただけそうなことを検討し、お伝えできたらと考えています。よろしくお願いいたします。

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カテゴリー: アドバイス, 子育てについて, 家庭での教育

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