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6年生の今月の本


ぼくがぼくであること タイトル ぼくがぼくであること
著者 山中 恒
出版社 岩波少年文庫
 

 平田秀一(ひらた ひでかず)……すばらしくいい名まえだ。なによりもいちばん秀(すぐ)れているという意味だ。だが、名まえぐらいあてにならないものはない。だいいち、名まえが秀れているからといって中味まですぐれているという証明にはならない。現に、その秀一はまことに秀れない顔つきをして校門を出てきたのである。(ああ、ああ! 地震のものすげえのがきて、うちなんかぺっちゃんこになっちまわないかなあ。)

  秀一がこう思うのにはわけがあった。授業中に立たされたのである。それも、立たされてあたりまえみたいなことをやったからである。秀一は授業中、パチンコで同級生の梅津(うめづ)をねらうつもりが手もとがくるって、先生をうってしまった。しかもそのたまが、首すじからぼろぼろほじくりだした「あか」を、鼻くそでこねあわせて合成したもので、こともあろうにまともに先生の口へとびこんでしまったのである。当然のむくいとして、秀一は教壇(きょうだん)のわきに立たされた。ところがそれを、おしゃべりな妹のマユミが見てしまったのである。(あいつ、きっと、おふくろにいいつけやがるだろうなあ。)

  秀一は5人兄弟の下から2番目だ。長男は大学生の「良一(よしかず)」、次男は高校生の「優一(まさかず)」、その次が姉の「稔美」。トシミと読む。中学生である。それから秀一、4年生のマユミの順になる。秀一以外の兄弟たちはみんな成績はいいし、勉強するし、要領(ようりょう)もいい。めったに母の見ているところでヘマをしない。

 マユミなんて、自分を美人だと思っているばかりか、どうしたら人に自分をかわいらしく見せられるかということも、よく知っている(知っているばかりじゃなくて、ちゃんとそれを実行する)。母は、どなることと小言を言うことしか知らないイキモノだから、秀一はいつもおこられてばかりだった。(おれは、おこられるために生まれてきたのかもしれないなあ。)ときどき秀一は考えるのである。

 とんでもない成績表を家に持ち帰った秀一は、おそろしい夏休みをむかえることになった。とにかくうんざりするほどの問題集が、どかっと秀一のまえへつまれた。母がわざわざ書店にたのんでおいたものである。秀一はいいかげんに嫌気がさしてきた。
「ふん! こんなうちなんか、おっとびだしちまうのよ。」
ところがマユミはおもしろそうだ。
「秀ちゃんも6年生になったんだから、もうすこしまともなことを考えたほうがいいんじゃないかしら。」
「そんなこといったって、おれが家をとびだせば、みんなあわてるさ。」
「さあ、どうかしら? ためしにやってみたら?」 

  どっちが兄で、どっちが妹かわからない。(ためしに家出してみるのもわるくないな) 秀一は、公園のわきの道路に駐車(ちゅうしゃ)してある小型トラックの荷台へとびのり、すみにおいてあったズックのシートをかぶった。すぐにエンジンがうなりだし、小型トラックはかなりのスピードで動きだした……。

【 いきあたりばったりのインスタント家出を実行してしまった秀一。見たところもない場所で、なんとかころがりこむことができた農家で、今までとまったくちがう生活がはじまります。こまった顔をしていれば手をだしてくれ、秀一のかわりに考えて決めてくれたおせっかいな親も兄弟も、ここにはだれもいません。いるのは、へんくつでがんこな老人と、同い年の夏代(なつよ)という女の子だけ。武田信玄の財宝さがしなど、さまざまな事件がつぎつぎとおこる中、秀一はおとなたちと、そして自分自身と向き合いはじめます……。】

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